「ワンダフルライフ」

 土曜日はどうしてだか早く起きてしまう。
 それは騒がしい木曜日とは理由が違う――というか理由が無い。目覚まし時計の鳴る前に、自然と目が覚めてしまうのだ。それが他の日ならば、時計の表示を見てから二度寝してしまうのだが、土曜日だけはそうもゆかない。寝過ごすわけにはいかないのだ。
 ライルはベッドの上に身を起こして軽く首を捻る。目が覚めた、といっても完全に覚醒しているわけではない。まだ芯は呆けている。夢を見ていたわけではなくて、いや覚えていない類のものだったのかもしれないが、反芻するような感情は少なくともその内には無かった。うーん、と考えるのはこの半端な時間に何をするかで、読んでいた本は図書室に返してしまったばかりだったし、次を探しにゆくにはまだ司書が出てきている時間ではない。困った。
 途方にくれてとりあえず毛布の皺を引き寄せてまっすぐにしてみる。このままぬくぬくと二度寝にしようか。それともらしくもなく走り込みでもしてやろうか。そう考えて、顔を上げた。
「あ」
 そんな感嘆でも驚きでもないただの一音を吐き出したのは当然走り込みをしようと決心したからではない。ライルはのばした毛布をはねのけて床に飛び降りる勢いで足を落とすと、裸足のまま冷たい木の床を蹴って窓に飛びついた。勢いをつけてカーテンを開けば、すぐにわかる。
「……止んでる」
 まだ誰の足音もついていない中庭は真っ白に染まって、きらきらと浅い角度の朝日に光っていた。







■ 土曜日






 照明の落とされた映写室に、再び光が点けられたときには、階段状の座席に座っているのはスタッフたちだけだった。
 それをなんとなくライルは物悲しく思う。
「……いっちゃったねえ」
 そうぽつりと呟いた所長の言葉に、めいめいが困ったような途方に暮れたような、そんな顔をして笑って頷いた。そうか自分だけではなかったのかと思いながら、ライルも同じような顔で相槌を打った。
「そうですねぇ」
「しかし今回は大変だったわ」
「あ、そっちもすか」
「最後までごねるひととかねぇ」
「車種が違うってアレでしょ? もー、最初に言ってくれよってハナシで」
「そうそう! 何なんだろうねぇあれ」
 それぞれに担当相手の愚痴を言いながら、席を立つのに続いて、ライルもやわらかな天鵞絨の座面から立ち上がろうとする。それを制したのは、横に座っていたスタッフだった。
「ライル、ちょっと時間いいかな」
「ん?」
「これ、見てほしいんだけど」
 そう言って差し出されたのは古いフィルムケースだった。薄くホコリの積もったそれは、土曜日の仕事のしめに保管庫にしまわれるもので、『持出禁止』の赤いスタンプを隠すようにして付箋が張り付けられていた。
 その下の、無機質な書体で並んでいる名前の一番下に、知っている名前があった。
 ニール・ディランディ。
「……無理」
「だめです」
「何でだよ、てかそれ、だしちゃ駄目だろうが!」
「でもだめです」
 そう言ってフィルムケースをおしつけられる。円形のケースは持ってみると軽く、何かが入っている感覚はなかった。
「もう技師さんに渡しちゃいました」
「すみちゃん」
 がくりと肩を落としたライルは笑い声を上げるスタッフたちに諦めて、ぐったりと椅子に身を沈めた。全員笑っている。グルらしい。
「諦めてろよ、俺ら今日全員徹夜で探したんだぜ」
「そうそう。名前しか情報無いのをさ、せめて亡くなった時期だけでも教えてってくれりゃあよかったのに」
「……教えてって、誰が」
「ソランくん」
 そう言われて本格的に腰が抜けた。あの野郎。
「何が映っているかはわからないけどライルは見ておくべきだって。ソランさんは、お兄さんが何を選んだかわかってるって言ってました、自分がわかるのにライルがわからないのはおかしいって」
「だっておれにわかるわけないだろ、」
「お兄さんでしょ?!」
 別にだからって見なきゃいけないていう道理ではないだろうとか、そもそものところで持ち出し禁止だろうがとか、そんなことを言っても目の前で怒ってるのだか悲しいのだか眼を潤ませている相手にかなうとも思えず。
「……わっかりましたよ」
 ライルは両手を上げて『降参』を示す。
「でもねぇ、それが何にもならなくたっておれのせいじゃあないからな」
「わかってます」
 そう言ってスタッフたちは技師に合図を送り、照明が再び落とされる。ライルは観念して、銀幕に目を向けた。
 何が映っているかなんて──わかっていた。
 あの海辺の時間。切り取った場所は違っていても、その何処かの、何時か。そうでなければあのいかにも頑なそうな青年の、それ以上に頑なだったに違いない少年時代において、彼に最後まで連れ添える思い出となりうるものか。ニール、その名前を捨ててしまったひと、ライルという存在を切り捨ててしまったひとは、そうでなければ彼に光など与えはできまい。
 そんなふうに考えて、苦笑を浮かべる。
 3、2、1。古いフィルムが軋みながら始まりの合図を刻む。












 雪が舞っていた。
 部屋の中は暖かい光に満ちている。電球の光。暖炉の灯り。
 部屋の中には大きなテーブルと、その上のクリスマス・ディナー。ぴかぴかに磨かれた食器に、ツリーの装飾が光っている。
 テーブルには父親。そして男の子と女の子。そして彼。
 母親は少し遅れて席につく。皿の上には大きなチキン。ごちそうに子供たちは笑いあう。
 しあわせな――これ以上のものが無いなんて知り得なかった時間。












「……嘘だろ」
 椅子に座りこんだままライルは知らず呟いていた。
 ライルはその時間を知っていた。忘れる筈もない。忘れられるわけがない。映っているのは自分のようで、しかし絶対に自分ではない。これはライルの思い出ではない。いつも座っていた椅子を覚えている。そこに知っている子役の少年がいて、彼は違う椅子に座っていて、子供と、笑いあった。
 ニール。
 そう、あれは『ニール』の思い出だ。
「びっくりした」
 横で見ていたスタッフが、しみじみと呟いた。
「ほんとにそっくりなのね、わたしライルの映像いつの間に撮っちゃったのかと思ったわ」
「そっか、スミは去年この施設に移動してきたんだもんねぇ」
 所長はライルのうしろの席から笑って言った。
「言わなかったけどね、アタシがお兄さんの担当でさ」
「……所長が?」
「そ。やー覚えてるわー、最後まで悩みまくって二転三転してさ、あれに決めたのも最後の最後で、いやー、大変だった」
「忘れてたんじゃないですか、だってそう知らないでソランくんの担当にさせちゃったんでしょ?」
「だってソランくん関係無いじゃないさ」
 所長は椅子の後ろからのぞきこんできて、ぽかんと白い画面を見つめたままのライルの頭をぐしゃぐしゃとかきまわす。
「予想は当たった?」
「……これだけはないと思ってましたよ」
 そう呟いて、ライルは背もたれにずるずると情けなく身を預ける。何よりも参ったのが、きっとそれを──間違いなく、ソランはこれなのだと、少なくとも自分との思い出ではないと、察していたのだ。それが参った。他人でしかない、兄と同じ顔だというだけの自分に触れることを赦してしまうほど、自身は彼との思い出を、腹の底にずっと溜め込んでいたというのに。
「そういうものよ」
 所長はもう一度、ライルの頭をぐしゃりと撫でた。
「近すぎるもののほうが、わからなかったりするの」



 映写室を出て中庭に出れば午後の日差しは夕焼けに近付いていて、積もった雪は表面が少し溶けて水滴を浮かべ、それが金色にきらきらと光っていた。
 それを無粋な指でえぐり取ったかのように、少し曲がったり蹌踉めいたりしながら大体のところまっすぐの線で向かいの棟まで横断している煉瓦の道に、ライルは足を踏み出さないまま目を向けて、そうして振り返った。
「ヒデさん」
「ん?」
 いつも通りフィルムを回収して保管庫へ戻ろうとしていた同僚は、不意に立ち止まったライルに少しだけ面食らったような顔をして立ち止まる。少し前を歩いていて、既に中庭に出てしまっていた他のスタッフたちも、足を止めて振り返った。
「あと、所長──みんな」
 それを見回して、それからライルは細い不安げな道を見た。そうして、言った。
「すいません、時間を貰いすぎてしまいました。おれは──思い出を、決めました」