「ワンダフルライフ」
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■ 日曜日
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雪の積もった中庭に、スコップを持った男が2人出てくる。コートにマフラー。手袋もしっかりと。晴れたとはいえ早朝の空気は冷たい。防寒対策は完璧だ。
空は青く、地面は真っ白だった。建物も概ね白い。眼が灼ける。
「やっと晴れたな」
「だがまた降るんだろう」
「まあね。でもそしたら、また雪かきするさ」
「手伝いを頼め。1人でやると手が痛む」
「そいつはどうも」
ライルはそう言ってソランに笑いかけた。ソランは少し面食らったような顔をして、そうして露骨に顔を顰める。
「──こういうのも忘れるんだろうか」
「何が」
「俺はあんたのことは、そんなに嫌いじゃなかった」
唐突なそんな言葉に、ライルは眼を丸くする。ソランは構わずに雪にスコップを突き立てる。がつり、と破壊的な音がする。
「そういうのも、忘れてしまうんだろうか──俺の選んだ思い出は、確かに俺がずっと抱えていたものだったけれど、それで、俺があいつを怒ったことも、他の連中が悲しんだことも、あんたに会ったことも、全部忘れてしまうんだろうか」
「さあなぁ──」
ライルはそう呟いて、ソランの横にスコップをそっと差し込む。さくさくとした雪を掬い上げて、放る。
「何しろおれは選べなかった奴だから、向こう側のことは、よくわかんないんだけどさ」
「ああ」
「でも、忘れたくねぇんだったら、覚えてるんじゃねぇかな」
もう一度、雪にスコップを突き立てようとしたソランの手が止まる。
此方を見るソランに構わず、ライルは少し笑いながら雪をさくさくとどけてゆく。
「その思い出で胸がいっぱいになった瞬間に、それだけを抱えて向こう側へ行くんだって、それがおれの聞いた全部だけどさ、でもそれを思い出したときって、例えば嬉しいとかだけじゃないと思うんだよ」
「それは、」
「だってソランもさ、ニールに、えーと『ロックオン』にさ、言いたいこととかあるだろうし、そういうのを思い出しちまうと思うんだよ。そういうのも含めて、生きてた日々ってことだろ、思い出って」
ライルは雪を掬い上げながら、言葉を切ることをやめない。
「間違ってるかもしれないけどさ、おれはそう思ったんだ。そういうのがわかるようになるまで、一週間過ぎるどころか、結構無駄遣いしちまったけどな──ソラン」
「何だ」
「おれは覚えてるよ」
そう言ってようやくライルは手を止める。
ソランはまだ一歩しか雪の上に踏み出さないまま、其処に立っていた。
「おれは覚えてるし──多分おれはソランのことがそんなに嫌いじゃない」
「……ありがとう」
「どういたしまして。あ、じゃあ礼ってわけじゃないが代わりにひとつ」
軽く首を傾げたソランに、ライルは空を指さして言う。
「4月23日って何の日? 別に、髪切った日ってわけじゃないんだろ?」
「ああ」
そんなことか、とでも言うように、ソランはひとつ頷く。
「俺が──もっと子供だったときに、こんなふうに酷く晴れた日があって、それが今までに見たこともないような青だった」
「今日よりも?」
「多分、今日よりも」
そう言って、ソランは空を見上げる。ライルもそれを追うようにして、コの字形に切り取られた空を見る。まだ早い時刻の空は少し白々としている。
「俺はその頃人に伝える言葉を持たなかったから、訊いたんだ。こんな空の色を何と言う、と」
「うん」
「答が、それだ」
『4月23日の空くらいでいいんじゃねーか?』
「……あいつらしい」
「俺もそう思う」
くく、と笑ったライルに、ソランは表情を変えこそしないものの、静かに頷いて答える。
「ともかく、そういうわけで俺の青の基準にそれが増えた。『4月23日よりも青い』とか、『少し薄い』とか。どうせそんなくだらないことをを伝えて聞くのはあいつくらいだったし、そう言えばあいつは結構愉しそうにしていたからそれでよかった」
「そうか──おれも見たかったな」
「空を?」
「うん」
「ただの空だ」
それだけを応えてソランはスコップを振るいはじめる。ライルが進んでいたあたりまで雪をどけてしまって、そこで手を止めてライルを見る。
「仰ぐ空の名前は要らない。奇麗だと思えればそれでいい。それだけだったんだ」
「名前をつけたかっただけじゃないのかな」
ふと、そうライルが言ったのにソランは訝しげに見る。
「や──何となくだけど。ソランに名前をやりたかったんだよ。ソランと居る時間の名前が欲しかったんだ。だけど、多分ソランが思ってるほど、ああ、その頃のソランが、だな、思ってたほど多分ニールも言葉を知らないから、だからその日の名前をつけたんだ。ニールは」
「何故、そう思う」
「おれがいまそう思ってるから」
ライルは空を見上げてそう笑う。
「この空に名前をつけたいんだけどね、まるで思いつかないんだよ。それで割と今、困ってる」
「くだらない」
「まったくだ」
そう応えてライルはスコップで雪を撥ね散らかす。
「そろそろ本腰入れようぜ、相棒。朝になるまでに奇麗に片付けて、足腰悪いばあちゃんに感謝されよう」
「悪くない」
映写室を出た時に、スタッフの人数はそれまでよりひとり減っていた。
「割り当て、増やさないといけませんねえ」
「あと雪かきの要員も」
「それはやってよー!」
「俺が?!」
好き勝手に言い合った言葉が、中庭に出たところで止まる。それぞれがそれぞれの角度で、空を見上げていた。
「晴れたね」
「ほんと、気持ちいいくらいに」
「──で、いいんじゃないか」
「──ん、何が? 悪ィ、スコップで聞こえなかった」
「一番奇麗だった日の空、で」
(おわり)