「ワンダフルライフ」

■ 金曜日

 雪が未だ止まない。
 ライルは窓の霜を拭って溜息をつく。指のあとは透明度の低い硝子にゆらゆらと残って、ほんのすこしの熱に溶けるけれど、あっというまに細い痕だけ残してまた白で染まってしまうだろう。面接室の内側はストーブを強く焚いていて、その触れただけで凍り付いてしまうほどの冷たさは、指先だけに留まってそのうちに消えてしまった。
 雪かきをした道も、最初のうちはいくらか段差が見えていたのに、あっというまに風にならされて平らになってしまった。その上を、出番待ちで退屈になったのだろう、エキストラの小さな子供たちが、顔を真っ赤にして駆け回っている。
「楽しそー、」
「行くかい?」
 小さく呟いたつもりだったのを聞かれたらしく、振り返ってみると所長がコートのポケットに両手をつっこんで近寄ってきた。ライルよりも頭ひとつ小さなところにある鮮烈な赤い髪は、いつもよりも丁寧にまとめられているようだった。それがひょいとライルの脇から、窓の外を覗き込むようにして見る。
「冗談じゃないですよ」
「あたしは行くけど」
「行くんすか──あーほら怒られちゃった」
 上から見ていると、案の定というところだが、どうにも子守り担当になっている衣装スタッフが慌てた調子で駆け回って、子供たちの首根っこを捕まえてゆく。もっとも彼女ひとりでは、子供の団体を相手にするのも大変そうな様子だが。
「なんだ、つまらん」
「だからやめろってば。今日撮影本番でしょ。所長もそのかっこだと出るんじゃないの」
「ばれたかー。気合い入ってるっぽくてなんか恥ずかしいわね」
 エキストラが仕事のスタッフも居るが、端役で演技力が必要無いとか雰囲気が近いだとかで他の仕事の人間が引っ張り出されることも多い。ここもそれなりに人手不足なのだ。とはいえ他人様の思い出に顔を出すわけだから、そうなればそうなったで此方としても本気で演じなくてはならない。
 顔を顰めた女は前髪をくしゃりと掴んでひっぱると、その手の合間からライルを愉快そうに見上げた。
「もっとも気合い入ってんのはあんたもじゃあないの」
「おれ?」
「いつもだったら一番に加わってるくせに」
「一番はあんたでしょ?」
 嫌味のつもりで言ってやったのだが、そうにやりと笑われると返す言葉も無い。
 気合いを入れる必要などないのはわかっているのだ。きっと『彼ら』の関係は、そんなものではなかっただろう。むしろそんな不自然を、きっとニールは、『ロックオン』は『刹那』に示さないで生きていたのだ。それはわかっているのに、無駄な背伸びをしようとしてしまう。兄にはできなかったものを何か、彼に示せないだろうかと思ってしまう。或いは兄と同等の何かを。
 無駄だ、と思う。
 ソランは向こう側へゆくことを選んだのだ。あの苛烈な目をしたいきものが、前進するのをやめるというのは、この短いつきあいの中でわかってしまったことだった。立ち止まることなど、期待したつもりはない。むしろ立ち止まろうとすればそれを怒るつもりだった。
 結局そんな決意など、本当に必要はなかったのだが。
「──馬鹿みたいだ、なんか」
 おとなたちの手を逃れて雪の降る中を駆け回る子供たちを見下ろして、ライルは小さく呟いた。赤毛の女は、ん、と首を傾げてライルを見上げる。
「おればっか立ち止まってて」
「じゃあ雪合戦行くかい?」
「何でですかい」
「くだらない足踏みしてるよりゃマシってことよ」
 にいと笑った所長はくるりと踵を返すと椅子にかけていたライルのコートを取り上げて、そのままの勢いでライルの胸に投げつける。
「先行くよ」
「本気で?」
「本気で。5分遅れたら全員で雪玉打ち込むから」
 そう宣言して歩き出した背中に溜息をつき、ライルはコートに腕を通しながら歩き出す。あのひとはそういうことを本気でやる。しかも言った倍の規模でやる。
 とはいえ防寒をせずに外に出てしまうつもりはなく、こちらは律儀にコートかけにさげてあったマフラーをとって首にひっかけ、手袋はポケットにねじこんでから廊下に顔を出せばもう誰も居ない。元より皆スタジオに行ってしまっているはずの時間だ。多分この棟は無人に近いのだろう。
 しかし階段を下りようとしてふとライルは足を止める。廊下の先の食堂に灯りが点いていた。
 節電節電と怒る食堂の連中が点けっぱなしで出て行くとは珍しい。とはいえ見つけてしまった以上、消しておかなければ怒られるのはライルなので、足早に廊下を進んで扉を開ける。
 無人ではなかった。
「あれ」
「……、」
「あ、ライル!」
 木の細長いテーブルが並ぶ一番奥で向かい合って話していたのは、片方は同僚の女性スタッフであり、そしてもう片方は、
「──ソラン?」
「順番か?」
「あ、いや、未だ──じゃなくて、何してんだお前ら?」
 別に担当ではないスタッフと話してはいけないなんていうルールはない。むしろ此処は、訪れた者に対しては何のルールも存在してはいないのだから、彼らが好きなように好きなものと語らえばいいのだが、それにしてもこの青年が、赤の他人と、しかも女性と、二人きりで話すような人間だとは思っていなかった。
 ソランは言葉に困ったように黙ってライルを睨み付ける。それに応えたのは妙に浮かれた調子で笑うスタッフの方だった。
「ちょっと頼まれ事で」
「頼まれ事?」
「そう──ライル、あなたの友達はいいひとね!」
 そう言ってにやりと笑ったスタッフは、かたんと椅子を引いて立ちあがり、ぱたぱたと駆けてライルの入ってきた戸口まで来ると、物怖じしない視線で見上げて笑みを深めた。
「え、すみさん、何」
「ソランさん、頼まれました!」
 ライルの動揺になど目もくれず、がばっと振り返ってソランを見た年若い外見のスタッフは高らかに宣言するようにそう言うと、ソランが低く頷く返事だけ聞いてからそのままの勢いで廊下へと駆け出してしまった。ちょっと待って!とライルが廊下へ首を出しても、振り返りもしない。
「──え、何だよそれ」
「あんたには関係ない」
「何が!」
「俺の勝手だ、ライル」
 そう言ったソランは立ち上がって、元気の良いスタッフが飛翔する勢いで駆け出した足取りを、丁寧になぞるような速度で歩いてきてライルの横に立った。
「俺がニールを──ロックオンを見て、あいつに見せつけられたのはそういうやりかただった。他人の信条など、意志など、知ったことか、やりたいようにやって、それが自分にとってベストだと思ったなら結果がどうあれそれでいいと、そう言わんばかりに扱われてきた」
 それで、ライルはようやくソランの鋭い視線の意味に気が付いた。
 彼は、怒っているのだ。
 そうやって生きてきたおとこを、自分と同じかおをしたおとこのことをソランはその選択をこそ、怒っているのだ。ライルの向こう側に。
「ソラン、だけどおれは、」
「わかっている」
 ソランは小さく頷いて、そうしてそのまま少しだけ俯いていた。躊躇うような、困り果てたような、溜息。それをひとつだけ吐き出して、それからくいと顎を上げる。
 此方を見据える強い眼差し。
「だから俺も、そういうことをする」
「──へ」
「あんたがどうするかなど知ったことか。そう決めた」
 そう言ってソランはライルをするりとかわし、スタッフが駆け出したのと同じような軽やかさで、廊下へと滑り出る。
「決めて、そしてそれを実行に移した。俺はあとは、その為の代価を払うだけだ」
「──代価、」
「雪合戦の相手」
「……ッあ!」
 それでようやく先程別れた上司の嫌な笑みを思い出し、ライルは盛大に悲鳴を上げる。訝しげに振り返ったソランに、刑の執行時刻が迫った罪人のような重さで応えた。
「5分で降りなきゃ所長にぼっこぼこにされる予定だった」
「確定だな」
「助けてソラン」
「断る」
 きっぱりとそう言って、今日はきちんと巻いているマフラーの裾を翻し、ソランはすたすたと廊下を歩いていく。ああ、と息を吐いたライルは戸口の横のスイッチで照明を消して、とりあえずの言い訳を必死で脳内に構築させる。もっともあの『先手必勝』を信条とする女傑を相手にして、そんな隙を見つけらっるとも思わなかったのだが。
 とはいえ階段を下りきるまではその代価に見合うだけの彼の約束とやらを聞き出そうという決意だけはあって、しかし子供たちとスタッフと衣装の女の子まで加勢につけた所長指揮による集中砲火の標的となってしまえばそんな決意もあっという間に吹き飛ぶのだった。



 潮騒。



 波の打ち寄せるぎりぎりの砂浜に、椅子がひとつ。
 そこに座っているひと。
 彼の髪を梳くひと。
 声が届く程度の距離をおいて、ふたりの人間がバーベキューの準備をしている。
 島には他に誰も居らず、ただ潮騒だけが響いている。
 時々裸足を波がくすぐって、その波や、或いは背後のひとの振るう鋏や、そういったものがちらちらと陽光を反射させて目を灼く。
 何を話していたのかは、本当に覚えていない。
 ただ、髪が伸びたから切ってやろう、と言われたのは覚えていた。
 それは、成長だ。
 そして時間の経過だ。
 伸びたから、と認識できる程度に、彼や彼らと長くともにいたことに、少しだけ驚く。
 何しろ彼には変化がない。
 そう言うと、俺は自分でやっちまうから、そう言って笑った。
 それはそれで何か自分の不備を笑われているようで面白くない。
 別に責めてるわけじゃねぇよ。
 何か言うまえにそう言われた。
 ちょっと伸びてくると邪魔になるからな、俺の場合。気になったらすぐやっちまわんと、支障が出る。だろう?
 そうか、と納得したら、頭を乱暴に撫でられた。
 ああ。
 ああ。
 覚えていない、などと言ったのはどの口だ。
 覚えている。
 その些細な仕草も、笑い方も、笑い方だって分類できないほどいくつもあって、そのなかでも一番好きだったのを、はっきりと覚えている。
 覚えていた。
 それを刻み込みたいと思った。
 あの笑い方を。困ったような、驚いたような、そうしてから、丸くしていた目を柔らかい曲線に細めて、しょうがねぇなあ刹那は、そう言って笑う、あの笑い方を。
 ソランは──刹那は──名前を幾つも抱えて幾つもなくしてきたおとこは、目を伏せて首のあたりに触れる指先の温度を感じる。指がふれた、そう意識した。仲間たちが何か笑いながら言い合っているのが聞こえたけれど、指の温度ばかりが気になっていて、そればかりで意識がいっぱいになったのだ。あの日。
 あの日。
 そうして、唐突に立ち上がる。
「──え?」
 触れていた髪が手から滑り出してしまったのに、途方に暮れたような顔をした男がいた。自分の座っていた椅子に乗り上げるようにして身を乗り出すと、その唇に触れた。



 ああ、いつからだ。そう思って刹那は泣きそうになった。
 いつから、こんなにキスが容易くなった。




「ッだアアアアアアッ?!」
 硬直してしまった身体を鼓舞するようにひっくり返った悲鳴を上げれば、それでようやく膝が反応して思いっきりバランスを崩してそのままライルは作り物の砂浜に座りこんだ。
 状況がわからない。
 音響だの撮影だの見物に来た他のスタッフや、エキストラの仲間、連中が全員口を丸くしてこちらを見ている。潮騒だけが白々しく響いている。波が揺れて、手に触れて、引く。
 その中でひとり、何事も無かったかのような平然とした表情で、ソランは椅子の座面に膝をつき、背もたれに手をかけて身を乗り出すようにした姿勢のままでライルを見下ろしていた。
 潮騒。
「──どうした、ライル?」
「ど、うした、っておい」
 そのやりとりに、ぶ、と誰か小さく噴き出す。
「──ぷ」
「く、ははははは!」
「なに! ソランくん大胆!」
「あっはははは──!!」
 そうなってしまえばあとは全員が笑い出してしまう。至近距離で見ていた連中は突っ伏してしまって身動きが取れずにいる。何だこの状況。その中でソランだけがひとり、真面目くさった顔をしてライルを見下ろしていた。
 砂浜にへたりこんだままで、ライルは裏返った声を張り上げて叫ぶ。
「台本に無かっただろうが!」
「そうだったか?」
 ソランは本気で困惑したように言い、ライルはぱくぱくと口を開閉させるだけで何も言えず、スタッフ連中は全員で「そこかい!」とつっこんでからさらに10分間笑いの海に叩き込まれることとなったのである。






「と、撮り直し!」
「──面倒だ」
「っていうかスタッフ全員再起不能だし無理だと思うぜ俺も含めて!」
「あともう一度やってもソランくんまたやるとおもう」
「要らんこと言うなソランも頷くなァ!」