「ワンダフルライフ」
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■ 木曜日
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廊下をがちゃがちゃと走ってゆく音が廊下に響いている。
目を薄く開けばちょうど目に入る位置にある万年カレンダは水曜日を示していて、ライルはブロックになっているそれを回転させてからまだ鳴っていない目覚まし時計を止めた。木曜日だけは遅刻の心配がない。
廊下の向こう側までいってしまった足音が、慌ただしく戻ってきてライルの部屋の前で止まる。がんがんと騒々しいノックの余韻が消えるまえに、焦った声がとびこんできた。
「おいライル起きてるか?!」
「……寝てる」
「起きてんじゃん! なぁ先々週おまえの使った校庭のセットってバラした?」
「えー、」
「昨日まで渋ってた奴が突然夜来て、高校時代の初恋とか可愛いこと言い出すんだもん! もう昨夜俺寝てねーよそのあと延々思い出話につきあわされて」
「よかったじゃん決まったんなら」
欠伸混じりにそう応えてから、ベッドの上に起き上がってざっと考える。っていうか何で今俺に言う。大道具の奴に訊いた方が早いだろうが。まあ連中もいまはスタッフの要求に応えるべく駆け回っているだろうから、捕まえるのも難しいに違いない。ライルもこれから捕まえなければならない。
薄いドアを開ければ焦った顔のスタッフがいて、その段階でライルは寝ぼけたあたまで考える。あー、と間延びした声を出して、出したところで思い出した。
「ごめん」
「バラした?!」
「や、でも先週スミちゃんが市民球場のマウンドにした筈だからあれ使えねぇかな」
「それはもうハルさんが押さえちゃってる、花見にすんのに」
「所長かー」
えー、とライルは考える。立場的に横から口を出しにくい。
「じゃあその辺大道具のじいちゃんに頼んでうまいこと使い回させてもらえば」
「真夏を?!」
「木とか変えたらなんとかなんだろ」
「じいちゃんが怖いむしろ」
「それは諦めろ――あーヒデさん」
「ん」
えらく表情の暗転したスタッフの体つきを上から下まで眺め回して、ライルはうーん、と小さく唸った。
「無くはないか」
「何が」
「ちょっとリクエストには物足りないが」
「だから何が!」
「じいちゃんの説得つきあうからエキストラお願い」
そう言うと相手は目を瞠ってから、ぱあと表情を明るくした。
「ひょっとして、イブラヒムさん?」
「え、何で」
「だってライルが最後まで気にしてたのそのひとだろ」
「……ばれますか。結構他のひとと平等にしてたつもりだったんだけどなァ」
「いやいやそういうもんだって」
くく、と愉快そうにスタッフは笑う。ライルよりも幾らか年若な外見であるこの男はライルよりも前からこの場所に居て、生きている間に何をどうして此処に来たのか、何で此処に留まることを選んだのか、それをライルは知らない。そういうことは自分から言うものも居るが、お互いに訊くことはなかった。
「別に他に手抜いてたってわけじゃないならいいだろ。他のひとたちの準備は終わってんのか?」
「セットは連絡ついてるから、あとは細かい確認だけだな」
「あーくそ順調だなお前。俺、音響の連中捕まえてくるからなんか伝言あったら──あ、俺足出しNGだけどそのへん平気?」
「大丈夫じゃないかな。あとでソランに確認しとく。音は完璧」
「いっそむかつくなお前。じゃあじいちゃんには昼前に土下座しに行くからなつきあえよ!」
そう言って、じゃあ、と手を振った男に手を振り返してライルは扉を閉める。薄いドアの向こうへと騒々しい足音が消えていったのを確認してから、うん、と背伸びをした。
二度寝にしよう。それは決意だった。殆ど昨夜寝れていないのはライルも同じだった。
「宜しくおねがいしまーす」
そう言ってスタジオに入ってきたエキストラのスタッフに、手を振って挨拶しながらライルはセットの合間を縫うようにしてソランを従え歩く。スタジオは様々な風体の人間でごったがえしていた。カメラの調子を試すもの、ラジカセを抱えて効果音を鳴らして回るもの、あれが足りないこれが足りないと狂躁的に駆け回るスタッフを、鬼ごっこと勘違いしてかワンピースを着た少女が追い回し、それを捕まえようとして衣装を腕いっぱいに抱えたスタッフが名前を呼びながら追いかける。
「あの子供もか?」
ふと足を止めて呟いたソランに、ん?、と振り返ってその視線を追ったライルは苦笑を浮かべた。
「そうだよ──みんなそう。あーでもマジ頼むここでそういう話は無しだ」
「そうか。すまない」
「いーや」
笑ってやってから、ライルはまっすぐにスタジオの一角を示した。
「ハイここ。ええと無人島の波打ち際ね。まだ『ツクリモノ』っぽい感じで申し訳ないんだけど、そこはうちのスタッフが総力を挙げてそれっぽいかんじにつくりますから勘弁してください──イメージは大体、こんな感じでいいかね?」
ひとりぶんのセットを組むのにはいかにもそのスペースでは狭く、『海』の深さも一番深いところでせいぜい踝が浸る程度の安っぽさだったが、ライルはスタッフの技術を信じていた。こういう場面設定になることは実のところ珍しいことではなくて、何度もこんな『海』を見ているからそれは確信している。
促されて『砂浜』に立ったソランは、くるりと視線を巡らせてその描かれた空と水平線と、その延長の先にあるキャットウォークを目を細めて見分しているようだった。そうしてそこから視線をそらし、背後の緑に視線を移して、何かを探すように視線を彷徨わせた。
多分其処には何かがあって、しかしソランはそんな細かい場面設定について、なにひとつリクエストをしなかった。
そういうのは、『つくる側』としては困るのだ。実際大道具の連中がちょっと途方に暮れていた。ただ、海って言われてもなあ、ということらしい。例えばざっくりした指定でもいいから太平洋か大西洋かそれ以外か、陽の当たる角度は、どんな鳥の声がして自生している植物は何か、そういうことを知る為にも場所や季節の情報を、何とか引き出そうとライルも粘ったのだが、ソランはまったくそれ以上のことは言わなかった。
ライルは息を吐いて、つくりもののセットを見回す。そう思って見回せばいかにもこれは『ツクリモノ』で、ただ海だというその事実だけを無理矢理に描き出したような、そんな風に見えて少しがっかりする。
季節が違えばこの施設からそう遠く無いところに砂浜があって、小さな森が近くまで迫っているから使えたのだろうが、とりあえずソランの思い出の中に雪は無いらしかった。それだけは確認できて、こうやってギリギリになってセットを組む羽目になったのだけれども(お陰でスタッフふたりで大道具をしきるボスの唾を身に受けながら説教されたのだが)、そうやってぽつぽつとほんのすこしの情報を聞いていると、ソランの中でその思い出が曖昧になってしまって、結局明確な背景をもっていないというのではないのがわかった。それを明かさないのがソラン自身の結論なのだ。
何となく、しか理解していない、ソランという人間の出自と経歴からライルはそれを思う。
稜線を探るようにしてその硬質な視線を巡らせていたソランは、ひとつだけ浅く頷いてライルを振り返った。
「──どう思う」
「何が?」
「これで良いと思うか?」
「へ」
そんなことを言われてもわからない。ライルはこの場所を見たこともなかったし、大体何の場所なのかすらよくわかってはいなかった。無人島で何やってるんだよこのひとたち、と戸惑い気味に他のスタッフが訊いてくるのだが正直ライルの方が訊きたい。
とりあえず、キャンプじゃないかね、と適当に応えておいたのを思い出して、ライルはその薄っぺらな答をこのセットの上に置いて見回してみる。
「──あー、」
そう呟いて、ライルは諦めたようにソランを見る。
「いいんじゃねェか?」
「ああ」
それで、納得したようにソランは頷く。
「なら、いい」
「いいのかよ」
「ああ──本当は、もうよくわからない」
そう言って、ソランはもう一度描かれた水平線をなぞるように遠くを見た。
「どういう場所だったかはわかる、だがそれを効率良く伝える方法を知らない。ニールならばそれを知っていただろうが、俺にはわからないしライルは知らない」
「そりゃそうだ」
ライルは肩を竦めてみせる。行った事のない場所を、知っているかと問われても困る。
「俺は余り世界の美しさとか違いとか、そういうものがわからなかった。ただ奇麗だと言ったらニールは嬉しそうに笑ったので、俺は奇麗だと思ったものは全部言ったんだ、ニールに」
訥々と吐き出される言葉の、その合間に笑うおとこの顔が見える。
この如何にも語彙の足りなそうな青年の、少年時代と向き合っていたおとこの顔が見える。
ライルは目を逸らして、多分彼が吐く言葉の中では奇麗でもなんでもない、ただの絵でしかない世界の枠を見回した。不意に胸の奥から浮かび上がった、妙な感情に胸が詰まって息ができない。歪つな球形の泡がふくれあがって吐き気がした。吐き出してしまって楽になるようなものとも思えなかった。
無意識に首元に手をやって、それを飲み下す。
ようやくすいこんだ息で、吐き出せたのは相槌と、笑い声。
「で、これは奇麗か?」
「──いや」
出し方を間違わなかった言葉の塊を、表情を変えることなく受け止めたソランは、そうだな、と視線を巡らせた。
「もう少し──濃かった気がする。4月23日の空は」
「美術さんすいませんリクエスト入りましたー」
ライルはついさっき他の者に喚ばれて走っていった人間の背中に声をかける。えー、と悲鳴のような声が上がって、次いで笑い声があがった。何処かで、案の定だ!という声がした。どういう意味だ。
「ライル」
「ん」
声をかけられて振り返る。青年は途方に暮れたように、奇麗なものよりもすこしだけ薄い空の下に立っていた。
「それでいいのか」
「いいんだよ。4月23日に何があったか知らねぇけどソランの持って行きたい思い出ってのはそんな感じだろ、奇麗な、くだらない、ありがちな」
「ああ」
ソランはひとつ頷いた。その表情が、その口元が、ほんの少しだけ柔らかくほころんでいるように思えたのは気のせいだったのだろう。そうしてそれが、痛みに堪えるようにみえたのも。
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