「ワンダフルライフ」

■ 水曜日

 軍人だった男が最後の日にに選んだのは、どの戦場の勝利でもそこから帰った日の歓声でもなかった。決して優秀でもない成績の学生だった頃、むしろなんで卒業できたんだなんて揶揄された士官学校で、いちばん下の階級の肩章を初めてつけた日。
「世界中を支配したみたいな気持ちになったんだ」
 そう言った男は目を細めて照れたように笑った。
「可笑しいだろう? それからあとにもらったどんな肩章も、どんな勲章も、あんなにぴかぴかしてなかったんだ」
「いいんじゃないですか」
 ライルは柔らかく笑って言った。
「そういうものだと思いますよ、あなたにとってそれが大切な思い出ならば」
「すまないね、散々無駄話につきあわせてしまったよ」
「いえ。むしろ楽しかった」
 ライルの即答に泣き出しそうな表情で笑った男は、遠い空の向こう側を探るようにして窓を見た。昨夜から降り始めた雪は朝になってもやまず、ライルは普段よりも強い火でストーブを焚いていた。それでも床のあたりに冷たさが溜まっていて、爪先があたたまらない。
 男は静かに空を見上げたままで言った。
「こういう時代だ、軍人も、そうじゃないものも、沢山きたんだろう?」
「……そうですね」
 ライルは浅く頷く。とっさに脳裏に浮かんだのは軍人ではない青年の横顔だった。こちらをみない男の横顔と、どこか似ているように思った。
 時代のことは、ライルにはわからなかった。
 わからなくなってしまった。いくらかはわかろうとしていたのだ。昔も、その前も。
 それもしかし、途中でやめてしまった。
 時代がどう変わろうとも、その変化からライル自身がとうにぬけ落ちてしまっていたし、それ以上にライルが知る人間の思い出は、変化の果てにも大した変わりはしなかった。
「ひとはひとですよ」
 ライルはそう、ぽつりと言って笑った。軍人の男は訝しむようにライルを振り返る。
「何を信条にしようと、何を生業にしようと、ひとはひとだし、それは変わりません。あなたのような軍人もいましたし、そうでもないひともいました。あなたのような、軍人ではないひともいました。でもそれぜれに失いたくない思い出があって、それを見つけられたときに笑った――人間というのは、そういうひとです」
「そうかあ」
 くしゃりと笑って、男は言った。
「あんたみたいな存在にそう言われると悪い気はしないよ」
 その言葉に含まれるちょっとした誤解に、ライルは気が付かなかったふりをした。それは結構よくあることで、この軍人だった男にも、そのほかの人々にもそう受け容れることが普通であるのはわかっていた。
 それを否定しないのは、それがライルの好みであるというよりも、それが男の為なんだろうと思ってその思考に笑った。



「──あー」
 無言で部屋に入ってきて、そのまま椅子につき、まっすぐに自分を見据える赤い目玉。その言外に含んだ否定に、ライルは溜息をつく。
「まだ決まってないか」
「……」
 ふい、と視線を逸らしたソランにもう一度息を吐く。問題児だ。そんな単語が頭に浮かんだ。
 ソランは悪びれて目を逸らしたわけではなかった。それは何の躊躇いも無く少し歪んで波打った古い硝子窓の向こう側を射抜くように見ていた。その視線は、先刻まで同じ椅子に座っていた男が向けていた、何を探せばいいのかわからずに何かを見いだそうとする、茫洋としたものではなくて、確かに何か探るべきものが其処にあって、それはその視線の先に確実に存在していて、そうしてそれを見据えている、そういう眼差しだった。
「此処はいつもこんな天気なのか」
 短く息を吸って、彼が吐き出したのはそんな言葉だった。
 そう言われてはじめて、ここ数日空が酷く曇っていたのだと自覚する。灰色と白に塗り込められた空は酷く陰鬱で、室内との温度差に硝子は白々と曇り、その向こうで相変わらず降っている雪がちらちらと影の形を変えていて落ちていた。
「あー、そうでもないぜ」
 そう言ってライルも空を見る。ソランのそれと違い、また軍人の男とも違って、ライルは其処に見出すべきものなど何ひとつ持ってはいなかった。
「むしろ珍しいくらいだ、ここまで天気が悪いのは。先週までむしろ、いつになったら冬どころか、秋になるんだろうって言ってたくらいの陽気だった」
「そんなものか」
「そんなもんだ。ソランは寒いの平気そうだから、あんまり気にならないか?」
「──慣れた」
 そう、ぽつりと短く言って、ソランは相変わらず空を見ている。その飽きぬ表情に、ライルは猫を重ねて少しだけ笑った。見慣れぬものを見つけてしまって、それから目を離せないいきものの目だ。
「何だ」
 声を殺したつもりだったが、それを聞き取ったのだろう。ソランは少し顔を顰めて振り返る。
「何だ」
「何でもないけど──何があんのかと思ってな」
「何も」
 そう応えて、ソランはまた空を見上げた。
「もう、何も」
「あー、」
 では何を探すのだろうか。そう問いかけて、しかしライルはそれを訊かなかった。ソランは相変わらず空を見上げていて、其処には相変わらず雪が舞っていた。
「また、道に積もってしまうな」
 ソランは空を見上げたままで言った。ライルは苦笑を浮かべて、いいさ、と言う。
「また明日か明後日か──止んだら雪かきすればいい。ソランの国は雪降らなそうな感じがするんだけどさ、生まれは、そうだろ?」
「ああ」
「でも一昨日雪かきしたときは慣れた感じだったな」
「あちこち行ったから」
 そう言って、ソランは立ちあがる。
 窓際まで歩いていって、その白く曇った冷たい硝子に指で触れた。
「名前を変えてあちこちで戦った。どんな場所でも構わなかった。そうすることが世界を変えると信じていた、俺たちは」
「そうか」
「こういう街にも住んだことがある」
 そう言ってソランは空から視線を剥がして、中庭を見下ろしているようだった。
「雪の降るような街に。そんなに長い期間じゃなかった、住む、といっても滞在する、という程度だったが──短期間だけモーテルを借りて、そこで生活した。雪かきのやり方は、教えて貰った。ニールに」
「……そっか」
 道理で邪魔にならないと思ったわけだ。教えたのがニールならば、彼の流儀だっただろう。自分たちが住んでいた街は決して雪深い場所ではなかったけれど、積もる時期にはそれなりに積もった。子供たちはめいめいに勝手に遊び、怒られて、競うように手伝って雪かきをした。
「どういう暮らしをしてたんだ、結構一緒にいたのか?」
「──誘導尋問か?」
「仕事だからね」
 にっこり笑ってやれば、ソランは振り返って此方を睨み付ける。ライルは殊更に笑ってみせた。
 ニールがどうやって彼と接していたのか、何となく判る気がした。察する、という段階ではない。あのひとが苦笑する顔が目に見えるようだ。それは多分、自分の表情とそう変わりはあるまい。
 それはきっとこの青年には不愉快以外の何物でもないだろう。それはライルにも察しがついていて、しかしその糸口を手放すつもりはなかった。ライルの仕事は彼に思い出を選ばせることで、それは小さな同情と秤にかける必要もなかった。
「……ずっとというわけじゃない」
 ソランはぽつりと言って、空を見上げた。
「あいつと組む任務はうまくいった。俺が何をして欲しいか、どういう援護をして欲しいか、それがあいつには全部わかっていた、俺は何も、わからなかったけれど」
 その空の先に、居たのだ。
 そう、ライルは唐突に理解した。その先に、ニールは居たのだ。
「それ以外ではうまくいかなかった。お節介焼きで、気分屋で、自分勝手で、いつも貧乏くじばかり引いていた──だろう?」
「──え?」
 ふと言葉を向けられて、ライルは目を細める。ソランはまっすぐに、灼けた鉄のような眼差しで、ライルを見据えていた。
「確かにこれは俺の思い出だ。だがあいつのそういうところはきっと、俺たちのためなんかじゃなかっあんだろう。そういう男だったんだ──ロックオンは」
 硬質なその呼び名を、舌に載せ慣れた自然さで言って、ソランは一度、言葉に詰まる。
 その名こそ彼が『ニール』を認識していた名前だと、そう気が付いた。その音を、彼が一度詰まらせて呼ぶことができなかったのを、ライルは知っていた。
 その名前を口に出して、ソランは言った。
「多分その本質は変わらないんだろう──あんたは弟なんだろう、ライル。そうだったんだろう?」
「──さあ」
 そう言って、ライルは苦笑するとファイルを閉じて立ち上がった。
「それにイエスとかノーとか応えて、ソランの思い出を揺らがせてしまいたくないな」
「ライル、」
「おれは、ニールの弟だって言っただろ」
 窓枠に腰をかけて、ライルは首を竦めてソランを見下ろした。
「本当はこれ、言っちゃ駄目なんだけどな。特に、選ぶ前の奴には──判断を間違わせてしまうから」
「……何を、」
「おれは、ニールの弟だって言っただろ。つまり、おれは基本的には、ソランたちと変わらない、ただの死んだ人間だってことだ」
 それを言ってしまったのは、きっとあの軍人の男が自分を見た、あの目のせいだ。
 ライルのことを──神か、またはその類のような、そういうもののようにして見た、あの目。
「何も違わねえんだ、おれはソランよりもちょっと前に死んで、此処に来た。ソランの座ってるのと同じ椅子に座って、同じ話を聞いて、そして、選ばなかったんだ」
「思い出を?」
「そう」
 その一週間のことを今でも覚えている。
 目を閉じて考える。自分の人生を振り返る。何度も目を瞑って、目を開けて、浮かぶ幾つもの情景を拾い上げる。しあわせなこと。かなしいこと。その全てに名前をつけて、大切だと思えたものを、見渡して。
 そうして、選ばなかった。
「此処に居るのはみんな、そういう人間なんだ。他のスタッフとか、明日から映画をつくるスタッフとかさ、みんな。自分の思い出を選ぶことができなくて、代わりに他のやつが向こう側に行けるように、此処で手を貸してる」
「何故、」
 ソランは立ち上がってライルに詰め寄ると腕を伸ばして、左の手首を強く掴んだ。
「何故だ。あんたにだってあった筈だ、俺にそういうのなら」
「あったよ──沢山あった。でも選べなかった。ソランの言葉を借りるとな、決意がなかったのかもしれない。でもそんなことよりも、怖かった」
「怖い、」
「ああ。だってニールはもう行ってしまった」
 それは昨日、ソランに言った言葉だった。
 それを知って一週間が過ぎて、そのあとまでずっと、自分の中に残された痛み。
「ニールは選んで、そうして向こう側へ行った。それが怖くてたまらなかったんだ。たったひとつだけ思い出を抱いて、ずっと一緒だったのに、おれの知らない何かを選んで、そのままおれの知らないところにいっちまった、また置いてかれたんだ──そう思ったら、ついていくのが怖くなった。そのうちに一週間経っちまって、おれは此処に残った」
 そう言って、ライルは苦笑を浮かべると、ソランに言った。
「でも、それを逃げ道だと思うなよ、ソラン。思い出を選ばない為に此処に残るってのは本末転倒だ。そうだろう? 此処に居て赦されるわけじゃない、むしろこれは間違いだ。ソランは此処に居るべきじゃないし、何よりお前にはこの仕事は向いてないよ──刹那」
 そう呼んだ瞬間、ぐしゃりとソランの表情が歪んだのがわかった。
 傷つけた。それがわかっているのにもう一度、丁寧にライルは言った。
「痛ぇよ、刹那」
「──すまない」
 そう言って軽く振った手首からソランは剥がすように握りしめていた手を解いた。色素の薄い皮膚は赤く痕がついていて、それを苦笑してさすったライルはその右手を伸ばして、悔いるように俯いたソランの肩を叩く。
「いいよ、今のはどっちかっていうと、おれが悪かった。だから、ソラン──」
「決めた」
 ソランはふいと頤を上げると、まっすぐにライルを見据えて言った。
「え、」
「俺は決めた。ライル」
「思い出を?」
「そうだ」
 その端的な言葉に揺らぎはなく、ひょっとしたら自分の言葉が駄目な方に彼を押し込んでしまったのかと思ってライルは息を吸いかける。しかし留めようとした言葉を、否、留める必要などなかったのに、それを制したのはソランだった。
「決めていた──本当は最初から決めていたんだ。だが、怖かった。多分、理由はあんたと一緒だ。ライル」
「そうか……いいのか」
「ああ。ライル」
「ん?」
 不意に呼ばれて瞬きをしたライルに、ソランは静かに言った。



「髪を切ってくれ」



 その言葉はひどくぎくしゃくとして頼りなく、しかし魔法を呟くように、静かに正確に紡がれた。きっとソランはそれをずっと腹の奥底に大切にしまっていて、誰かに請う為に吐き出すときをずっと待っていたのだ。