「ワンダフルライフ」

■ 火曜日

「おはようございます」
「おはよ。今日も寒いね」
「はよっす、また雪になるって」
「え、ほんと?」
 スタッフ同士口々に挨拶をしあいながら会議室に向かう。廊下は寒い。古びた施設は使う者の手で磨き込まれて、木の廊下はつやつやとひかっている。温かみがあると言えぬことはなかったが、寒いものは寒い。
「どうしました」
 一番うしろにくっついて、木目を追っていたライルを振り返ってスタッフのひとりが声をかけた。反射的に笑顔をつくってみせる
「いや、何も」
「ほんとに? 浮かない顔だけど」
「や、なんつーか、担当が」
 あー、と笑われる。
「昨日のにいちゃんか。君がやりにくそうにするなんて珍しい」
「やりにくいってんじゃなくて、」
「なくて?」
「やりたくない」
 はは、と笑われる。ライルは自然とすねたような顔になった。横から宥めるような声がかかる。
「まぁ仕事だしさ。割り切っていきましょう」
「はーい」
「あっじゃあライル俺の担当変わっ」
「それはやだ」
「えー」
 悲鳴のような声を上げるスタッフにみんなで笑っているうちに気分が変わってきて、ライルは少しだけほっとした。今週は人数が多い。ソランの他にも担当は三人いて、それぞれの話を聞くのに手を抜いていてはだめだ。
「おはようございます」
「はよーっす」
「うん、オハヨ」
 会議室に入って、所長に挨拶をする。彼女はいつも一番に入っていて、掃除を始めてしまっている。焦るということはないが若干申し訳ないのも事実で、めいめい走ると歩くの真ん中くらいの速度でデスクに荷物を置き、雑巾だのモップだのをとって担当の範囲を片付ける。所長はそれを好ましそうに見回していたが、ふと口を開いてライルを呼んだ。
「ライル、ちょっと」
「はい」
 箒を片手に窓際に立っていた所長は、伸ばした赤毛をぞんざいに肩のうしろでくくっている。化粧っ気も無く、気取ったところの見えない女だっだ。
「あのひと、イブラヒムさん?」
「……あ、」
 示された先には溶けかけた雪に構わぬように、建物の向こう側を走ってゆく青年が居た。見た目にはひどくゆったりとしたストライドに見えたけれど、その姿はあっという間に建物の陰に消えた。
「習慣なんだろうねェ」
「……ですね」
 ライルはひとつ頷いて応える。
 自分が死んだと知っていて、それを認めていて、それでも何も変えられないひとがいる。それをこちらがわが止めたり、変えようとしたりすることはしない。或いはそうやって、思い出を振り返っているのかもしれなかった。だからこそ。
「あー、」
「どーした?」
 間延びした声と一緒に雑巾を握ったライルを、訝しげに所長が見る。いや、と言って、ライルは肩を竦めた。
「寒そうだなあと」
「マフラー貸しに行きたいんなら行ってきていいよ」
「や、いいです」
 そう言って苦笑を浮かべたライルは、自分のデスクの上を簡単に片付けてから雑巾をかける。振り返ってみれば所長は眼を細めてまだ中庭の方を見ていて、その視線を追えば建物の影からあらわれたソランはペースを変えぬまま走っていってまた消えた。



 ファイルをめくりながら、話を聞いたメモを整理する。
 屋上に上がれば冬の風は冷たかった。短時間のつもりだったが、きちんとコートを着込んできた自分は正解だったと思う。縁まで行けば昨日雪かきをした中庭が、白の上に乱暴なひっかき傷をつけたみたいに見えて、それを少し笑いながら手すり代わりに少し高くしてある縁の上の雪を、手で下へ落としてからそこに座った。尻に湿った冷たさが伝わって、何か敷くものを持ってくればよかったと後悔する。
 今週の担当は4人。そのうちの2人は初日から殆ど思い出をひとつに選んでもらえているようだった。そうなるとライルは彼らから細かいシチュエーションやそのときに聞こえた音、色彩、そういった、映像をリアルにしてゆく要素を聞き出すだけになる。そうやって大事な思い出を語るひとの、柔らかい笑みがライルは好きだ。
 男性がひとり、こちらは少々手こずりそうだ。元は軍人だったらしく、面接のたびに違う戦場での勝利を語る。それは時々誇張されて、そこまでの戦果を上げることがひとりの人間にできるものなのだろうか、と考えもするのだが、そうやって記憶を再編成してゆくのはステップとして悪くはない。期日が迫ればその中からひとつを選ぶのだろう。
 そして、もうひとり。
 そう考えながら、ライルはファイルを捲る。レポート用紙には単語が1つ、それ以外には何も書き足されてはいなかった。
「──せつな、か」
 そう思って、指で自分の書いた文字を辿った。殆ど殴り書きのような文字が、彼の意図しているスペルと合っているのかはわからない。その言葉の意味も分からなかった。
 呼称だろう、ということはわかった。
 しかしそれ以上のことは何もわからない。彼の経歴を記した書類を見ればそれはきっとわかるのだろうけれども、どうもライルはそれをすることができなかった。
 ライルはファイルを雪の上に放り出して、灰色の空を見上げて息を吐いた。くるりと息が白く舞って、大気に溶けて消える。
 きっと彼の生きてきた道の何処かに、自分の知らない兄が居る。
 誰よりも傍にあると思っていた、何よりも理解していると思っていた、しかし自分が知らない、知ろうとしなかったひと。ニールという名前の他人。
 知りたいとは、思えなかった。
 ふいに、ギィ、と扉の開く音がして、ライルはそれを視線だけで見る。鉄の扉を押し開けたのは、できれば会いたくなかった人間だった。
「──ライル、」
 何もない、薄く凍った雪の積もった屋上をざっと一瞥すると、ソランはまっすぐにライルを見据えて言った。
「ソラン」
「他のスタッフに聞いたら、此処に居ると」
「ああ、ちょっと考え事するときは屋上がいいんだ」
 そう言って笑うと、それを許容と見たらしい。さくさくと雪を踏んで歩いてきた青年は、ライルを座っていた見下ろして少し躊躇うように言葉を飲み込み、ライルはそれを見上げて苦笑した。
「決まったか、思い出?」
「──いや」
 そう言ってソランは首を横に振る。
「決められない」
「そうか。沢山ありすぎて選べない、って顔じゃあなさそうだけど」
 冗談めかして言えば、くだらないことを言われたとばかりにソランは顔を顰める。苦笑を浮かべて、ライルは言った。
「別にからかうつもりじゃないさ。そういう人間は少なくない。結局そういう人間が最後に見るのは、別に嬉しいでも楽しいでもなんでもなくて、ただそれを覚えていてそれだけは忘れたくない、それだけの他人から見たらつまんないもんだったりする」
「……別に、そうやって悩んでいるわけじゃない」
 ソランはゆっくりと首を振る。ライルにはその様が何処か、幼い駄々っ子が言葉を失って、考え込んでいるように見えた。
「決める為の、決意がない」
「決意、」
「ああ」
 ライルが問うように覗き込めば、ソランは言葉を探るように暫く俯いていたが、ふいと顔を上げるとまっすぐにライルを見据えて言った。
「詫びだとか、そんなことを言うつもりはない。だが、自分が生きていた間に、してきたことを振り返って、その何かを選ぶための、決意ができない──ライル、」
「何、」
「俺が──俺たちが、何をしていたかは?」
 その、複数形が論外に何を、というよりも誰を、含んでいるのかは正しく理解しているつもりだった。ライルはひとつ頷いて、応えた。
「何となくはね」
「何となく、」
「昨日おれは訊いたろ。ニールは死んだのかって」
「──ああ」
 苦笑を浮かべてライルは言った。
「おれはニールが何をしてたのかを知らない。でも何かおそろしくでかいことをしていたことと、ニールは死んだことは知っていた、っつーか判った、って感じだな──情けないけど、一応最後に遺った肉親だったのにさ、そんくらいしかわかんねぇの」
「いや、」
 ソランは首を振って言う。
「あの、男は、そういう人間だった。勝手に良い悪いを決めて、人間を勝手に遠ざけた」
「よく判ってんじゃん」
 自分以上だ。そう言ってライルは苦笑する。それを思えば、昨日ドアを開けて入ってきた瞬間の、彼の驚愕の深さといったら半端なものではなかったのだろう。
「まあ、だから、おれはソランが何をしてたかとか、そういう複雑な事情はわからないし、多分此処に居る人間のうちに、ソランとかニールとか、その、グループ?とかさ、そういうののきっかけで此処に来ちまったのも少なくないんだろうけど、」
 ライルはそこで中庭を見下ろした。白の上のひっかき傷。それもそのうち消えるか、それか雪がすっかり消えてしまって、その内側のものを総て晒すことになるのだろうと考える。考えて、言った。
「でも──もうニールはいっちまったよ」
 ソランが、ひゅうと短く息を吸ったのがわかった。
 そうやって言葉にしてみて、ライルはその事実から暫く目をそらしていた自分に気が付いた。吐き出してみれば単純な言葉だったけれど、その事実は酷く鋭くライルの身のうちを切り裂いた。
「ニールが死んだことを、俺も知らなかったくらいだから、あいつはとっくに思い出を選んで、それといっしょにもう向こう側に行ってしまってるんだ。だから、ソランだって、とかそういう卑怯なこと言うつもりはないけどな」
「……何を、」
「知らないな」
 ソランが訊こうとした言葉を遮って、ライルは言った。
「調べたら判るかもしれないが、おれは知りたくないし知るつもりも無いんだ。少なくともとりあえず、そういうことだ。ソランにはその権利はあるし、ニールにはその決意はあったらしい」
 そう言うとライルは立ちあがって、肩を竦めた。
「深く考えるなよ、ソラン。や、ちゃんと考えた方がいいんだけどな? ソランが諦めることはないんだ」
「──ああ」
 納得できたという表情では無いけれど、浅く頷いたソランに苦笑を浮かべてその肩を叩く。相変わらず薄着の青年の肩は酷く冷えていた。
「なんでそうやって薄着で歩き回るかな──おれのマフラー、やろうか?」
「要らない。あんたはいつも、そうやって、」
「それはおれじゃないよ」
 そう言ってやれば青年が言葉を飲み込んでしまって、ライルは仕方ないというように笑った。
「部屋に戻ろうぜ、ソラン。コーヒーいれてやるからそうしたら、兄貴のことを少し教えてくれよ」