「ワンダフルライフ」

■ 月曜日

 黒髪の青年が扉を開けた瞬間、まるで凍り付いたように固まって自分を見据えるのに、ライルはいぶかしげな眼を向けた。
 背はひょろりと高く体つきも奇麗だった。目付きが少々鋭すぎるくらいだが、こりゃあ女にもてたんだろうな、などと要らぬことを考える。
「イブラヒムさん?」
 そう、ファイルに記された名前を呼んだ。途端彼の緊張が高まったのがわかる。
 自分の知り合いだっただろうか? そう考えてざっと長くもない記憶を探るけれども、自分の中にいかにも中東の出とわかるような青年に怒りを買うような出来事はなかった筈だった(逆ならばともかくだ)。何よりもこの仕事では、自分と直接関わり合いになった人間は、担当にならないようになっている。
 もうひとつ、小さな可能性に思い当たらないではなかったけれども、彼と自分との年齢差、こうやって対面している状態のではなく、自分の可能性としてのそれを考えれば、それも眼を向ける必要性も無いほどに小さなものだった。
 ライルは立ちすくんだままの青年に、自分の前の椅子を示す。
「どうぞ、イブラヒムさん。時間も限られておりますので」
 そう言うとようやく青年はぎくしゃくと身体を動かして部屋へ入り、椅子を静かに引いて座った。
 小さな部屋には木のテーブルとそれを挟んで椅子がふたつ、それらの横でしゃんしゃんとケトルを沸かせる石油のストーブ、それだけしかなかった。大きくとられた窓から冬の低い太陽の光をとりこんで、コートとジャケットを脱いでも平気なくらいには暖かかった。土曜日から降り続いていた雪は昨夜には止んで、そのつもったものが跳ね返すひかりが眩しいほどだった。
 ライルは机の上の黒いファイルに眼を落としてから、正面に座る青年に眼を向けた。その顔に表情は乏しく、先程見せた動揺の色はまるで無かった。ただその黄昏の空を思わせるような赤みの強い眼が、まっすぐにライルを見据えていた。
「ソラン・イブラヒムさん、で間違いないですね?」
 頷いた青年に、頷き返してライルは続ける。
「状況は既におわかりかと思いますが、念のために確認させていただきます。──イブラヒムさん、あなたは昨日、お亡くなりになりました」
「──ああ」
 そう言えば青年は、こくりと浅く頷く。低い声。それが初めて聴いた彼の声だとライルは気が付いた。落ち着いた、少し嗄れたような、乾いたこえだった。
「此処は亡くなった方が一週間過ごされる場所です。イブラヒムさんは此処で一週間、我々と一緒に生活していただきます。ただ此処でしなくてはならないことがあります」
 そう言って、ライルはひと呼吸挟む。コーヒーを入れておけばよかったとおもった。だいぶこの仕事は長いけれども、この説明にだけは毎回緊張する。
「今日を含めて3日間、今日が月曜日ですから水曜日ですね、その期間であなたの大事な、しあわせな思い出をひとつ、選択していただきます。それに基づいて、我々スタッフと一緒に映画を作ります。それを土曜日に上映会を行い、その記憶でいっぱいになった瞬間に、その思い出だけを抱いて『向こう側』へ行くのです」
「──向こう側、」
 淀みのない説明を遮らずに聞いていた青年は、そこで怪訝そうな表情を浮かべた。
「それは、『天国』なのか?」
「便宜上は」
 そう言ってライルは苦笑を浮かべる。
「呼び方とか、捉え方は色々ですね。我々もそう説明して、お手伝いするだけの立場ですので宗教的にそれがどんな名で呼んだ方がいいのか、正しいのか、その辺りはよくわからないんです。あなたの神に失礼なことでしたら、謝ります」
「いや」
 そう言って、青年は頭を振る。
「構わない。俺に──神は居ない」
「そうですか」
 そう言ってライルはにっと笑った。青年が少しだけ驚いたような顔をしたのを見て、説明するように続ける。
「ここはみんな一緒に集めるところですからね。宗教家の方が来てこの先をなんとか解明しようとだいぶ粘ってらっしゃいましたが、結局その辺を引っかき回した挙げ句に何か悟っちゃったらしくて、あっさり行ってしまいました」
「──何を?」
「『死んでしまえばみんなおんなじ』」
 そう言えば面食らったように青年はまばたきをして、それが嬉しくてライルは少し笑った。
「とりあえずこちらからの説明は以上です。イブラヒムさんの資料はこちらのファイルに用意してあります」
 そう言ってファイルを差し出すと、青年はぱらぱらとそれを捲った。
「そのほかにも、請求していただければ一生分の映像もお出しできますが、これは時間がかかりますので早めにお願いします。一週間、狭いですがお部屋を準備していますので、そちらでお過ごしください。施設は何処もご自由にお使いください。食堂は二階のつきあたり、風呂は一階ですが男性と女性で時間が決まっていますのでファイルで確認してください」
 自分のした説明をざっと追って、不足の無いことを確認すると、まだ資料を捲っていた青年に笑って言った。
「それでは、短い期間ではありますが宜しくお願いします。我々が全力でお手伝いいたします。質問は何かありますか?」
「──ひとつだけ」
 ファイルをぱたりと閉じた青年は、ライルを見据えて言った。
「ニール・ディランディという名に覚えは?」
 可能性! そう思いながらライルは溜息をつくようにして笑った。
「兄です」



 会議室によろよろと戻ったライルは、自分の席に辿り着くと椅子をがらがらとひいて座り込み机に突っ伏した。
「どーしたライル、感じ悪いぞ」
「所長ォ……」
 まるめたファイルでぽんと後頭部をどつかれて、呻く。
「まずいって、今回。イブラヒムさんまずいってば」
「なに、扱いづらい感じだった?」
「それ以上にまずい、おれの兄貴の知り合い」
「兄ィ?!」
 そう声をひっくり返して叫んで、しかし所長はしばらく腕を組んで考えたあとに、うむ、とひとつ頷いた。
「あんたの関係者じゃないだろ?」
「いやいやいや、さァ!」
 そう反論しようと思ったが、うまくゆかない。口をぱくぱくさせるライルの頭を、ぽすぽすと叩きながら所長は言う
「おまえね、その兄さんとイブラヒムさんの年齢差考えてみなさいよ。若い頃ちょろっとあったくらいでしょうが。そもそもあんたとだってだいぶ離れてるでしょうに」
「──双子なんだよ、おれ」
「あちゃー、同じ顔かァ。……でもそれでも、年の差幾つ? 7?」
「8、かな」
「じゃあ学校だって一緒じゃないでしょ。せいぜい知り合いに同じ顔居たとか、そういうレベルだって。むしろ思い出すのにきっかけになっていいじゃないの。うまく落ち着かせて、引きだしなよ」
「へーい」
「期待してるわ」
 そう言ってぽんと肩を叩くと、所長は自分のファイルを持ってすたすたとデスクへ向かう。見目では年の差が大して無いが、長いことこの仕事を続けている女傑である。元より反論を受け付けてもらえるなどと思ってはいなかった。
 ライルは溜息をついて椅子にかけなおす。
 笑えない理由があった。
 しかし、それは所長にも、スタッフの他の誰にも言えない理由だった。この施設には様々な人間が働き、また、生活している。その誰かに、自分と同じ顔の人間が、関わっていたかもしれない。それをライルは知っていた。
「なに落ちてるんですか、ライル?」
 そう言う声に、顔を上げると、女性スタッフが笑って外を指さしていた。
「中庭の雪かき、やってくれる約束でしょう?」
「あー──」
 だったっけ、反射的に出そうになった言葉をライルは引っ込める。すっかり疲れて、忘れてしまっていた。
「ヒデさんにさせて、おれ疲れた」
「何言ってるんですか、今週の私の当番に、ものすごく足腰の弱いおばあちゃんがいるんですよ! 滑って転んじゃったらどうするんですか!」
「あー、わかったわかった!」
 溜息混じりに立ちあがって、傘立ての横にたてかけてあるスコップをとる。最近常駐のスタッフに若い男が減ってしまって、こうやってこき使われる事が多い。もうひとりは自分より1年ほど前から働いているが、今週の担当がどうも自分以上に面倒な相手ばかりらしく、先程書類を抱えて走って行ってしまった。あれは夕方までつきっきりだろう。
 まあこうやって必要とされているという感覚は嫌いではない。いいように使われている、と思うとあまり楽しくはないが。そんなふうに思いながらコートかけからダッフルコートとマフラーを剥がしていたら、背後から声がかかった。
「ライルー」
「あ、ヒデさん雪かきやってよ」
「じゃあ担当変われよおまえ」
「やだ」
 そう言いながら振り返ると、戸口でこちらを覗いていた男はファイルを持った手を大きく振って言った。
「じゃなくて、おまえに面会!」
「──あ」
 はい、と示されたのは先程の青年だった。
「イブラヒムさん、」
 ライルは少し焦りながら、コートに肩を通して戸口へ向かう。青年は、立って並ぶと殆ど同じところに視線があった。しっかりと眼があって驚く──と同時に、相手も少しだけたじろいだふうにしたのがわかった。
 それがひとつだけ息をのんでから、言う。
「悪いが少し──時間をもらっても?」
「あー、これからちょっと、雪かきを」
 そう言ってスコップを示すと、それを睨み付けるように見た青年は、ライルの手からスコップを取り上げた。
「あ、」
「手伝う」
 そう言ってすたすたと廊下へ出てしまう。あ、と短く叫んで慌てて室内へ戻り、もう一本スコップをとってから横のコートかけからマフラーをひとつ、引っ張って振り回した。
「所長、マフラー借ります!」
「おー、頑張れヨ」
 返事が妙ににやにやと笑いを帯びていたのには気が付いていたけれど、それどころではなかった。ライルはばたばたと騒々しく廊下を駆け出した。



 意外に脚の早い青年に追いついたときには彼はもうホールを出て中庭に出てしまっていて、声をかける前にライルはその首根っこをつかまえるとマフラーでぎゅうと締め付けた。
「もう、寒いでしょうが!」
「──すまない」
 そう言ってそれをゆるめようと指をつっこんでひっぱる青年の、しかし少し面食らったような視線に顔を背ける。中庭は奇麗に雪が積もっていて、その上に縦横に足跡が走っていた。スタッフの若いのとか子供連中が、新雪に浮かれて駆け回ったのだろう。片隅の雪だるまに笑いながら、ライルは続けた。
「死んじゃったから風邪ひかないとか言うひとも居ますけどねたまに。実際そうですけど。でも実際問題視覚的に嫌な感じですからできたらやめてください」
「了解した」
 こくりと頷いて、それから青年は、スコップを握る手に力をこめたようだった。
「──そうなんだな」
「は?」
「あんたは、最初からそうなのか」
 そう言った、あんた、が、何を示すのかわかってしまった。ライルは溜息をついて、その背中を追い抜くと中庭に出る。
「イブラヒムさん、」
「ソラン」
 そう遮るように言われた。彼の名前だ。振り返って相手を見れば、少し苛立ったような顔をしていた。
「ソランと呼んでくれ。その馬鹿丁寧な言葉遣いも、やめていい」
「いや、一応そういうわけにも」
「あんたの話し方はさっき聞いていた。その方がいい」
「──あー」
 さっき、というのはきっと会議室でのやりとりだろう。長いつきあいだからああなっているわけであって、突然現れた青年に対していきなりそんな口きくのは規定も鑑みてあまりよろしくないような気がする。
 とはいえ担当者の意向なのだから、仕方ない。その方が楽という相手もままいる。やれやれと息を吐いてから、ライルは青年──ソランに指をつきつけて、言った。
「ソラン。あのな、おれはニールじゃないんだ。あいつが出て行ってから長いこと会わなかったし、あいつが何をしてたかも知らない」
「ロ──ニール、は」
 酷く呼び難そうな顔つきで、ソランはその名前を言った。口に出した瞬間に、表情は酷く歪んだ。
「いつもこういうことをした」
「──マフラー?」
「ああ」
 らしい、と思った。ライルは息を吐く。優しい片割れの、笑い顔を思い出す。そして思い出さなくなって随分長い時間が経っていたことに気が付いて、少しだけ驚いた。
「そうか」
 そう言って、手のスコップを雪に突き立てる。
「変わんなかったかァ──」
 スコップの刃先は、がっ、とアスファルトの地面を掻いて、耳障りな音を立てる。掬い上げた白を跳ね上げて、脇の花壇に振り上げてから、振り返ってソランを見た。
 彼は少し困ったように立ちすくんでいて、それに笑うと視線を巡らせて目の前の建物を指で示した。コの字形になっている施設の、ちょうど上から下まで縦に線を引くように、指でなぞる。。
「あっちまで、ずっと行く道があるんだ。途中で少し曲がるけどな。そこまで雪をどけて、道をつくる。オーケイ?」
「了解」
 そう頷いた青年は、それ以上の説明は要らないとばかりに雪を掬う。ライルはうんと頷いて、その横で自分の道をつくりはじめた。丁度左右にわかれて半分ずつ。
 アスファルトの打たれた地面は1メートルほどで終わり、そこから先は赤茶けた煉瓦が敷いてあった。園芸にはまった先輩のスタッフが突然整備したものらしく、素人仕事はところどころでっぱっていたりへこんでいたりで大変にスコップがひっかかる。春だの秋だのに見る分には味があっていいものだなどと思っていたが、これはあとで怒鳴り込みにいったほうがいいかもしれない。
 5メートルほど、無言でスコップを振り回した。淡々と進むソランは体力が随分あるらしく、しかし力の加減がよくわからないようで時々煉瓦ごと掬い上げそうになってしまっていた。それに抜かれまいと雪をどけていたら、流石に疲れてライルは足を止める。
 振り返ってみれば白けた道がまっすぐに扉まで向かっていて、それに少し満足して溜息をつくと、まだ雪に視線を向けていたソランに眼を向けた。
「ニールは死んだんだろ」
 手が止まる。
「……ああ」
 ソランは低く応えた。しかしライルを振り返りはしなかった。そっか、そう応えた声は、意識しなかった静かな笑みが含まれていた。
 死んだんだろうな、とは思っていた。
 理由は特にない。なんとなく、そう思っていた。ある日気が付いたら腹のどこかにぽっかりと空いてしまった部分があって、それにただ気が付いたのだ。そういう感じだった。意味はわからなくて、あとになって、ああ、多分あれがニールだったんだ。そう思った。
「ソランはニールの何? 友達?」
「仲間だ」
「ああ、やっぱり」
 そう言って、振り返る。ソランは真っ直ぐに立って、進むべき道──向こう側の扉を見つめていた。
「そんな感じがした。悪かったな、担当が俺で。代わった方がいいんだろうけど、どうにも説明しづらくて」
「何故だ?」
「──ん?」
 そう問うたソランは不思議そうにライルを見据えていて、それにライルは首を傾げる。ソランは苛立った風に、言葉を重ねた。
「何故、悪いと思う?」
「同じ顔があるとやりにくいだろ」
「……いや。ライルは、嫌なのか?」
「あんたの担当? まあ、嫌、ってほどじゃないな」
「本当に?」
 そう問う。眼が鋭い。金属のようだ、とライルは思った。銅のように赤く、鋭い。
「ああ」
 説明する言葉を失ったまま、ライルは頷いた。そうしてから、考える。嫌──嫌か? 嫌ではない──だけど、
 その感情と、理由が、わからない。
 困惑するライルの言葉の続きを待つようにして、ソランは暫くライルを見据えていたが、ひゅうと息を吸うと、唐突に言った。
「刹那、と」
「──ん?」
「言ってみてくれ」
「……せつな?」
 そう口に出すと、ソランはぐしゃりと何かを押し潰したような、表に出すことを拒否して飲み込んだような、そんな酷い表情をして頭を振った。
「──すまない、やめてくれ」
「ん、ああ」
 頷けばそれ以上の言葉を拒否するように、ソランはスコップを振り上げて地面に突き刺した。煉瓦が少しだけ欠ける音がして、ああ、この色にも彼の目は似ているのだ、そんなことを考えながらライルはその横の雪を掬い上げた。
 そのまま2人、扉に辿り着くまで無言で雪をどけ続けた。






スタッフの皆さんはオリキャラです。唐突に日本語名ばかりですが。