高く孤独な道をゆけ
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その名前を、その顔を、忘れたことはなかった。
興味があったわけではない。ただ事実として、記憶として、消すわけにはいかない場所にしまいこんでいただけだ。何かのきっかけがあったらあっさりと浮上するだろう、そのくらいの、手に届くような場所に。
結局のところロックオンにとって、その名前が、その顔が、生きていようといまいとどうでもよかったのだ。その名前とその顔で定義づけられる人間は、彼の日常と未来と両親とその他諸々の数え切れないほどの何もかもを奪った、その張本人というわけではなかった。実行者ではなく、指示者でもなく、その延長線上には存在していたがそれだけだった。そのテロ組織の一員として雇われていた男。「ひょっとしたら」ディランディというその家族の情報を調べていた「のかもしれない」男。
その男は笑いながら路地を駆け回るこどもたちを見守っていた。小さな街で、戦争からも権力からも身を引いて、静かに次代のこどもたちを護り慈しむことに身を捧げることを誓った男。
結局のところ、ロックオンにとってその男が生きていることなどどうでもよかったのだ。
そして、ニール・ディランディにとってはそれは許せないことだったのだ。
「──何から話したもんかな」
案内されたアパートの部屋はこぢんまりとしていて、ロックオンが言っていたとおりベッドの他に革張りのソファはあったけれども、自分やロックオンのような体格の人間が横になるには少々手狭であるように思えた。そのソファに座るように示されて、ロックオンは小さなキッチンでケトルを火にかけている。それとシャワールームに続くらしいドアがひとつあって、ただそれきりの部屋のようだった。
切り口が鮮やかなバゲットはアレルヤと並んでソファに放り出されていて、残りの半分を手渡した大家だという老婆は、歯の抜けた口を開けて嬉しそうに笑い、ありがとうね、ニール、と言った。どういたしまして、と返したロックオンは、そろそろ街を出ようと思うんだ、と笑いながら続けた。それは寂しくなるねぇ、と溜息をついた老婆は、今この街を覆って押し潰そうとしている不安の霧を、まったく吸いこんではいないようだった。
「いや、話さなくてもいいようなことだ。話しても、言い訳になるだけだな」
マグカップとウィスキーグラスというアンバランスなふたつを両手に持って、マグの方をアレルヤに手渡しながらロックオンは言う。他にカフェオレに相応しい器が無かったということなのだろう。せめてアイスを注ぐならばいくらか申し訳なさは低減されるだろうかと思いながら、アレルヤは寒々しいグラスから沸き上がる湯気に鼻先を温めるロックオンを見ていた。
「あの男が何をどうやって此処に落ち着いたのかは知らないが、それまでは傭兵紛いのことをやっていた。それは?」
「聞きました」
「流石」
賞賛するようにちらりとアレルヤを見てから、ベッドに腰掛けたロックオンはウィスキーグラスにそっと口をつける。それに倣ってアレルヤもマグカップからインスタントコーヒーを舐めた。
「その前か、それともその延長上のことだったのかもしれないが、そいつはある国でテロ組織に加わっていた。大したことはしちゃいない、やっぱり斡旋とか情報収集とかな、そういうのが向いてたってことなんだろうな。実行部隊じゃなかったが、発言力はあったらしい」
言いながら時折ウィスキーグラスを傾ける、その仕草に本当に彼の飲んでいるのはただミルクだけを入れたコーヒーなのだろうかと、少しアレルヤは思った。アイリッシュコーヒーを気取るにはインスタントの匂いばかりが漂って、ウィスキーの匂いも生クリームも足りなかったけれど、ロックオンの表情は普段の彼の、冷静な、しかし何処か茶化す余裕のあるものではなかった。
「何がどう巡り巡って此処に辿り着いたのかなんざ知らないし興味も無い。気が付いても放っておくつもりだった」
「でも、あなたが──、」
「うん」
ロックオンは頷いて、アレルヤを見て苦笑する。
「俺が撃った」
「……何故ですか」
「紛争は殆ど起こる寸前だったんだ、アレルヤ」
あの日見ていたテレビ番組。
そのなかで繰り返される戦争のイメージ。払拭するために奔走する政府。その姿を裏切りだと叫ぶ旧来の組織。言い争う大人たち。放り出されたこども。
その手をとった男。
「やがて人革連派の古い政府の連中が、暴発するだろうってことは目に見えていた。紛争はそう遠い将来に起こるもんじゃなかっただろう。ヴェーダもそれを示唆していた。独立っていったってほんの少ししかもたなかっただろうさ、やがて大国もしゃしゃりでてきて、お互いの利権争いで紛争の意味なんかどっかにいっちまう。いつものパターンだな」
「それに何の関係があるんですか」
「紛争が起こったら、俺たちは出ただろう?」
そう言ってロックオンは中身が半分ほど残ったウィスキーグラスを床に置いた。ニスの剥げかけた床の上でミルクの入ったインスタントコーヒーは静かに水面を揺らす。
「多分、そのときにまきこんじまえば早い話だったんだろうな? そうすれば誰にも迷惑はかからなかった。でも、それはできなかった」
澱んだ水面はロックオンを歪に映す。
「ロックオン。」
「違うよ」
ロックオンは、歪に笑う。
「おれが殺したかったんだ。ロックオン・ストラトスじゃない──ソレスタル・ビーイングの、ガンダムマイスターじゃない、顔の無いただの力、圧倒的な暴力、そういうものが手を下したんじゃねぇんだ。あのおとこを殺したのは、ニールっていう、馬鹿なガキなんだよ」
「それで、紛争が生まれたとしても──?」
アレルヤは、マグカップを脇に置いて立ちあがった。ロックオンはそれを静かに見上げている。
「ひょっとしたら起こらなかったかもしれない、他の誰か、或いはその老人の努力によって避けることができたのかもしれない、紛争を」
「ヴェーダは起こると示唆していた」
「違う、あなただ」
アレルヤは窓の外を示す。そこからは教会の全景が見えた。その窓の傍に立って、教会に出入りする人間たちを見つめていたロックオンの横顔を、アレルヤは見たような気がした。
「あなたが、この国に紛争を呼んだ」
「──、」
ロックオンはアレルヤを見上げたまま何も言わないでいた。否定も肯定も無く、ただ、受け容れるように。
アレルヤも何も言えぬまま彼を見返していた。そう言ってしまってから、一体彼から何を引き出したかったのか、アレルヤにすら理解できなくなっていたのか。悔恨か、絶望か、謝罪の言葉を求めていたのか。殆ど狼狽するようにロックオンを見下ろしていたアレルヤは、その彼の薄い唇が、何かの言葉をつくろうと短く息を吸うのを見た。そして、
「ア──、」
銃声。
は、と二人は窓の外を見る。教会に灯が点っている。喧噪が沸く。遠くから響く、銃声。連続した発砲音。教会へ向けて走ってゆく黒い集団。走り去るジープ。
はじまってしまう。アレルヤは思った。
はらの底の声が、愉快そうに笑い声をあげる。
「──ロックオン、」
「降りるぞ、アレルヤ」
「ええ、でもあなたは、」
咄嗟に吐き出した声を遮るようにロックオンは床のウィスキーグラスを蹴飛ばして駆け出す。アレルヤは仕方なくその背中を追った。
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