高く孤独な道をゆけ
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アレルヤは二杯目のコーヒーを頼もうかどうしようか、空になったカップの底を覗き込んで暫く考えていた。
待たせない、と宣言したものの、ロックオンが用事を済ませるといった以上暫くは示された場所へ戻っては来ないのだろう。しかし時間を潰すようなあてがあるほど偽装学生は忙しくなかったし、そのための場所を探すして彷徨うというのもこの状況下では流石に躊躇われる。職務質問されたら間違いなく一発検挙だ。不審人物だという証拠が無いとしても殆ど不審だし、そもそも事実として不審人物である。
とりあえずコーヒーくらいはいいだろう。何か甘いものを頼んでもいいかもしれない。少なくとも先週までは平和だったはずなのだから、多少物価は高くとも、物資が足りないというほどまではないだろう。
そう考えてウェイトレスを呼ぼうと手を上げかけたアレルヤを、おや、と通りから呼ぶ声があった。
「学生さんじゃないか、こんなところでお勉強かい?」
ホテルの女主人が、満面の笑みを浮かべて手を振ってきた。
「ああ、そうか、大学の先輩が居たのかい」
「ええ」
女主人の買いこんだ生鮮食品やら消費財は渡された袋からはみださんばかりだったけれども、アレルヤにとっては大した荷重とも思えなかった。バランスが多少悪いけれども、トレーニングだと思えば若干物足りないほどである。
「本当はそのひとを頼って此処に来たんですが、このごたごたで連絡がつかなくなっていて」
「会えたのか。そりゃあよかったねぇ」
「ええ、だからせっかくですが今夜からはそちらに行こうかと。キャンセル料は払いますから」
「いいよいいよそのくらい。よかったら国を出る時にでも、その先輩と一緒に顔を見せとくれ」
アレルヤは曖昧に頷く。どうもこの国を出るのが、そこまで平穏な形でではないような予感がしていた。嘘を吐くのに躊躇いは無いが、約束をするには申し訳ないような気分でいた。
「ひとの繋がりってのは大事なもんさ」
女主人は、アレルヤの曖昧な表情に気付かずにうんうんと頷く。
「こんな田舎でもねえ、ホテルなんかやってるとそう思うのよ。何十年も前に来た客が来てもね、わかるのさ、あー、来たでしょう、あんた、なんつってね」
「そういうものですか」
「そりゃあそうさ。それに客のほうも、わかるかなわかるかななんてね、そわそわした顔してるから余計さね。逢いたいと思えば逢えるし、探してたら相手の方から探し出してくれるのさ」
「もしも僕が何十年かして、」
「来たら? そんときゃ流石にあたしも引退してるだろうよ!」
からからと陽気に笑う女にアレルヤは笑い返す。
「まぁでも息子が継いでくれるかもねぇ。一番上からもう軍隊に入っちまって、そんなもん振り返りもしないだろうけど。一番下は生意気にも、おれに任せろなんていうんだよ」
「そりゃ頼もしい」
「10歳だけどね」
「将来有望じゃないですか」
「……だろう?」
褒められて悪い気分ではないらしく、女は眼を細める。
「あの子なら、十年後にあんたが来たってちゃんと笑って迎えるだろうね。もう学校から戻ってるだろう、今日はこんなだからきっと早退だろうさ。よかったら挨拶しとくれ、生意気に、またいらっしゃいませ、なんて言うだろうよ」
「それは楽しみだ」
頷いてみれば女はそれが自慢であるらしく、ひどく嬉しそうに笑った。アレルヤはそれを少し擽ったいような思いで見る。おやとこども、という肖像は、アレルヤにとって酷く居心地の悪いような、しかしそれを恋うような、焦燥感にも似た感情を起こさせるものだった。
「旦那が前の戦争でやられちまってね、お先真っ暗だと思ったけれども、息子たちもいるし、あんたみたいな客もくる。そんなに悪いもんでもないよ、人生ってのは」
「そうですか」
「そうさ。あの爺さんも、あんな死に方をするほど悪くない人生だった筈さ」
そう言って女主人は視線を遠くへ泳がせる。その方角に彼の死んだ教会があるのだと、アレルヤも思って視線を向ける。すぐ脇に並ぶ古い作りのアパートに視界を遮られて、その尖塔を見ることすらできなかったけれど。
「確かに、それまでの人生は酷かったかもしれないけどね。でも今じゃどうだい、善人だ聖人だなんて柄にもない褒められ方してさ、でもいい気にならんで酒ばっかり呑んで」
「それまでは──?」
ああ、と女は頷く。
「軍人だったっていう話は?」
「聞きました。独立戦争で戦った将だと」
「将、だなんていうけどさ、まあ最初は雇われだよ。あの頃はごたごたしてたから、国の外からいいのも悪いのも、兵士が入ってきてねえ。そんなのを纏めて国をつくるのに貢献して、それでうちの国に落ち着いたのさ」
「ここの人ではなかったんですか」
「ああ」
そう言って女は、仕方ないと言わんばかりの顔つきで笑った。
「あたしの知ってる限りで、最悪の部類の人間だったんだよ」
住所にあったアパートメントは酷く古い建物で、多分この街の中で一番というほどではないだろうかとアレルヤには思えた。外から見た分では中までわからなかったけれど、大した手入れもされていない様子の外壁の汚れ具合から見て、そう家賃も高いだろうことは察しが付く。短期間のステイならば確かにホテルに泊まるよりも安くつくだろう。
トランクを提げたアレルヤは、その二階を静かに見上げていた。そこにはまだ光が灯っておらず、それどころかどの部屋にも光は見えず、夕闇の忍び込み始めた街の中では何処か不安げなたたずまいに見えた。
「アレルヤ」
不意に背後からかけられた声に、アレルヤはゆっくりと振り返る。ロックオンはバゲットの飛び出た紙袋を抱えて困ったような顔をして笑っていた。
「悪かったな、待たせたか?」
「いえ、今ついたところで」
「ならよかった。このバゲットが旨いんだが、焼きたてがすぐ売り切れちまうんだ。大家の婆ちゃん、足が悪いわ耳も遠いわでさ。俺が代わりに買いに行くわけ。婆ちゃんと半分こにするから、朝フレンチトーストにしようぜ」
「ロックオン」
此処で彼が何と呼ばれているのかわからないまま、アレルヤはその名前を呼んだ。優しい笑顔を浮かべた男は、ん、と首を傾げる。
「どうしてただの旅行でこんな街で、一週間以上と決めて此処に住み着いたんですか? 確かにあなたのオフはまだ余裕があるけれど、ただ風景でも見に来ただけならそんなに要らない筈だ」
「そうかな、此処は悪い街じゃないぜ」
「そうですね。いい街だ──やっと戦争が終わって、みんなほっとして、平和に暮らそうとしていた。きっといい街だったんでしょう。ひとりのひとが、死ぬまでは」
そう言ってアレルヤは彼を見た。
彼と、彼のうしろにある尖塔を見た。
「ロックオン」
そのおとこは教会で額を銃で射抜かれて死んでいた。
「かれを殺したのは、あなたですか」
そうだよ、とロックオンは優しい笑顔を浮かべて言った。
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