「いいえ、ガラスの靴でした」
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「其処から飛び降りるつもりかい?」
古風な橋の欄干に歩道を無視して腰掛けて、足を揺らしていたロックオンの背中に愉快そうな声がかかったのは、横に引っかけたビニール袋の中の缶ビールが半分ほどになったころだったか。
むしろよくもまあこんな朝っぱらから、こんな場所で酔っぱらっている変人が通報されんもんだと、半ば愉快になっていたところだったのだ。むしろ声をかけるのが遅すぎる。そんなふうに億劫に思って振り返らずにいたら、ぬっと突き出てきた腕が勝手にビニール袋から黒い缶を引っ張り抜いて消えた。眼を細めて振り返ると、きんいろのあたまの男が笑っていた。
「貰っても?」
「駄目つっても飲む気だろ、お前さん」
「ありがとう」
案の定聞き入れずにプルトップを引き上げる男に呆れた一瞥を向けて、ロックオンは欄干の上に空き缶を積んだ。重力に逆らって縦に3本、積み上げたところで風に対抗するには少々不安が生じてきて、塔は横に二列に並んでいる。
「それで、私の質問に答える気は無いのかな」
「飛び降りるにはちょっと恐いな」
「そんなものかね」
片手に缶を握ったままで、きんいろの頭はぐうと欄干の上から乗り出してみる。
「なんだ、大したものじゃないじゃないか」
「どんだけキモ座ってんだよあんたは」
「何、通りがかりの酔っぱらいにつきあおうとするのが精々さ」
「成る程そいつは相当だ」
乾杯、とばかりにもうひとつ、缶を引き出したロックオンに男は、乾杯、と缶を上げてロックオンの持ったそれに側面をぶつけてやる。そうしてロックオンの腰掛けた欄干に背中を預けて、酷く美味そうに安いビールを呷った。なるほどその躊躇いの無さには感心できるなとぼんやり思いながらロックオンはゆらゆらと足を宙に揺らす。
水面は静かに陽の光を反射してきらきらと海へ向かってゆく。気持ちの良い朝だ。
「困ったな」
水面を見下ろしてロックオンは呟いた。ん、と男は振り返る。
「ちょっと飛び降りたくなったわ」
「おや、度胸がついたかい」
「だってあんた来ちゃったしね」
ロックオンは肩を竦めてきんいろの男を振り返る。改めてつくづくと見ても、一体何の商売をしているやら、まるで見当もつかない風体の男だった。きちんとスーツを着込んでいるし、ひとひらの埃も連れてはいない。もっともロックオン自身の方も見当がつかないのは同様だろう。胡散臭いという自覚はあるが、少なくともこんな朝っぱらから酔っぱらっている程胡散臭くはないという自信がある。ぎりぎり。
「だってあんた面白がるだろ、飛び降りたら」
「大笑いをする自信はあるな」
「だろ? そうなるとやっぱ期待には応えたくなるね」
「それは困ったた性分だな」
「ああ、自覚してる──あ」
笑って言ったその拍子。
ひょい、と高く振り上げた右足から、勢いよく靴がすっとんだ。
「あ」
二人で口を開けて見送る先で、片方だけの革靴は、奇麗な放物線を描いて水面に落ちる。ぽちゃん、と水音はリアルに響き、丸く波紋が残ってすぐ水の流れに消えた。
それを無言で見送っていたロックオンと男は、口を開けたままで暫くそれを見下ろしていた。まるでそうやって待っていたら、ぷかりと靴が浮き上がってそのままロックオンの足に戻ってくると信じているように。或いは笑顔を浮かべた女神か何かが両手に金の靴と銀の靴を載せて貴方の落としたのはどちらですかと水面から浮き上がってくると(ロックオンの脳裏ではそれがティエリアだった、何故か)。
遠くで汽笛が響く。
午前の陽気を冷ますように風がひとつ吹いた。
「──ぶ」
「っははははは! 随分と派手な期待の裏切り方をしてくれる!」
「っくはははは、したくしてしたんじゃねぇよ!」
「そうか君はシンデレラだったのだな!」
「じゃああんた王子か!」
炸裂したように笑い出す大の男二人に、通行人がぎょっとした目を向ける。構わず腹を抱えて笑うロックオンの片足は裸足のままで、それを耐えられんとばかりにばたばた振っている間にもう片方まで靴がすっ飛んでいってしまったのでそのあと更に20分笑い転げる羽目になった。
「……ぶっちゃけアレ実はおろしたてなんですが」
「そうか君は私を笑わせ殺すつもりだな?」
とはいえ酔いは醒めると虚しいもので、これ以上の被害を被る前にと歩道側に向き直ったロックオンと、せめて浮き上がってこないものかと水面を見据える男とは、それでも静かにビールを舐めていた。二人で築いた缶の塔は3本目になっており、4本目に着手したところで最初の1本が崩れて水面に消えた。
「正直あんたに死なれると俺が困る」
「何故かな」
「靴屋まで背負ってって」
「………」
「何そのもの凄いつめたい視線?」
まあ裸足でも構いませんけども、そう呟いてぱたぱたと足を揺らしたロックオンを見上げて、にやりと笑った男はその手をロックオンの足に伸ばした。ロックオンが、あ、と思う間も無く、踵から丁重に持ち上げると、屈み込んでその甲に唇で触れた。
「何なら抱きあげて連れて行ってさしあげようか?」
「結構でした泳いでいきます」
リクは足責めでした。