赤い夢を見た









 横で眠る男の息遣いが変わったのを、刹那はぼんやりと感じる。見下ろせば薄い瞼がゆるゆると開いて、翡翠をとろりと溶かし込んだような翠の眼が露わになった。その視線はまだ焦点を結びきれず、茫洋としたままで薄闇に閉ざされた宙を彷徨う。
 遮光率の低いカーテンの向こうから、夜を押し戻そうとする陽光の兆しが透けて滲み入ってきていた。弱い、しかし確固たる光は、ものとものとの境界線を蒼く際だたせる。
「……時間まではまだある」
 彼の様を見て反射的に転がり落ちた言葉はまるで気遣うもののようで、それに刹那は顔をしかめる。無意識からとはいえ、いやだからこそ、そんな言葉を吐く自分が奇妙に思えた。
 しかしロックオンは相変わらずぼんやりと目を開いたままで、状況を把握しようとするようにあたりを見回す。その視線は刹那を撫でて、しかし何の反応も見せずに通り過ぎる。それはそれで何か物足りないように思いながら、刹那はロックオンの双眸に見入っていた。何の感情も映さない、とろけた色の瞳。
 それがゆるりと動く。
 彼が見ていたのは己の掌だった。毛布から抜いて出した、不安に思えるほど骨の浮いた手首。そこから続く細く長い指。常には日に晒されぬそれは、闇に浮かび上がるほどに白く。透けるように白く。
 それをロックオンは見つめる。
 てのひらを。ついで、裏返した甲を。
 滑らかな曲線を描く皮膚には荒れたところは無く、胼胝や染みのような不完全さすら無かった。ただしらじらと、己から発光するように見える、てのひら。
 それがふと、歪んだように見えた。
「……ロックオン、」
 違う。
 そのてのひらは、指は、静かにふるえていた。相変わらず茫洋としたままの瞳に意志の色は見えず、その表情は半ば夢の向こうを覗きこんでいるようなのに、その指がただ何かに怯えるかのようにふるえている。堪えきれぬ感情が、そこから溢れでるように。
「……せつな」
 薄い唇が名前を形作る。色が失せている、そのときそう気付いた。
 白い肌。色を失った肌。そのうちで両の目玉だけが深く濃く翠にひかっていた。
「刹那、俺の手袋、知らん?」
「……手袋?」
「うん」
 途方に暮れたようにそう呟いて、視線は空を彷徨う。そんな場所に在るはずは無いのに──いや、その眼は己の手のひらから逸らそうと動いているように見えた。
 何を。
 その上に何を見たのだ。
 刹那は固く自分の唇を噛みながら、ベッドから降りる。探すまでもなくそれは冷たい床に落ちていた。片方を拾い上げてもう片方、乱れたシーツの下に見つけて、空に埃を払う。
 その音が、気配が、解らない筈はないのに、ロックオンは此方を向かない。ただ戸惑うように、視線を揺らす。
 小さく溜息をついて、刹那はもう一度ベッドに乗り上げるとそっとその手のひらを取る。
 触れれば、ひくり、とその指が震えるのがわかった。何かを堪えるように震える、冷たい指先。反射的に引こうとするのを刹那は腕を握ることでとどめて、その指にそっと手袋を被せる。ごわついた革の感触。未だ逃れようとするその腕に力をこめて、刹那はひとつひとつの指を通してやりながら手袋の端に噛みついてそれを引き下ろす。
 そしてもう片方も。ロックオンはゆっくりと瞬きをして、自分を抑えつけるように両腕を取ったままの刹那を見上げた。漸くその碧の双眸が、焦点を結ぶ。少しだけ驚いたような色。まるで今はじめて、刹那の顔を見いだしたような。
 それから、ほっとしたように笑う。
「──ロックオン」
「ありがとう」
 そう言ってロックオンは手を伸ばして刹那の頭を一度撫でる。そのままその首を柔らかく抱きしめると、ベッドの上に引き寄せた。
「何を、」
「時間、まだあんだろ」
 そう呟いた声は眠気を含んでいて甘く、先ほどの覚醒は何だったのだと刹那は息をつく。ロックオンはゆるゆると刹那の髪を手袋の指で梳いている。その動きはだんだんとゆったりとなって、そうして彼を抱き寄せるようにして、止まる。
 その手のひらに手を伸ばして、刹那は指先を見た。自分の指先には絶えず刃物や銃器の扱いのたびに削られた疵があった。その内側の、色彩も、大きさも違う、疵の無い彼の手。
 ひとを殺して、喪ってきた、てのひら。
 刹那はそれを強く握りこみ、そして眼を閉じた。ロックオンが再び目覚めたときに、その奇麗なものを疎まなければよいと願いながら。




これで実は掌には古疵が!とかだったら正直ものすごい勢いで逃げ出したいんですが。