クレデンダ
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自分は情報に飢えているのだ。それを刹那は自覚している。
もっと幼かった時期には与えられなかった知識。世界の多様性。めいめいの抱える歪み。願い。憎しみ。
文化圏を同じくするものでもそれぞれの立場で求めるものは変わる。またその逆も然り。単一の祈りと単一の憎悪とだけで着彩された世界に生きてきた刹那にとって、その広さは自由を喜ぶというよりもむしろ途方も無さに足下の竦む思いがした。ひとがこんなにも何もかもを、貪欲に求めることが赦されることに。
朝の走り込みの途中で買ってきた新聞を床に投げてから、刹那は冷蔵庫から牛乳瓶を抜いて飾り気のないコップに注ぐ。それに行儀悪く口を付けながらそう広くもない部屋を横断してベッドを背もたれに床に座り、散らばった新聞をひとつとった。
一面を飾るのはやはりというか自分たちソレスタル・ビーイングの動向で、経済誌であろうとゴシップ誌であろうとそれは同じだった。どのように報じられているかよりも、気になるのはどれだけが報じられているかであり、まだこの国の新聞では情報が規制されてはいないのがわかる。それが東京という都市の性格なのだろうと言ったのはスメラギだった。世界をどこか他人ごとのように捉えている地図の端に引っかかった島国――その典型が名前くらいしか知らない隣人なのだとしたらそれも頷ける。
世界の中心での争いは、三面に移動して淡々と綴られる。その隅に刹那は眼を留めた。連日悪鬼か気狂いかとばかりに忌々しげに語られる数値。そんななか珍しく好意的に語られた一つの記事。いや、かれらの感情など関係は無いのだ、そこに記される数値。その違和感。
刹那はそれを睨む強さで見つめ――そして違う新聞を取り上げた。間違いであればよいと叫んでいる声がする、その叫び声の意味の分からないままに。
無人島のコンテナの奥、居住区画の床に転がっていた球形のロボットは、刹那を認識するとちかちかと眼にあたるランプを明滅させた。
刹那はそういったものに声をかけてやる趣味など持ち合わせていなかったので、構わず彼を跨ごうとした、それを引き留めるように合成音声が響く。
『タチイリキンシ、タチイリキンシ!』
「……何」
『タチイリキンシ!』
理由を問おうとしてもひとにつくられたこえは命じられた言葉を繰り返すだけで。
「ハロ」
仕方なくそれの名を言う。コードを認識して続く言葉を待つモードに入ったロボットを見下ろし、厄介なのは持ち主と同じかとため息を吐いた。
「ロックオンは居るか」
『ロックオン、イル、ヘヤニイル』
「用がある」
『ヒトリニナリタイ』
「……?」
ハロは眼をひからせて繰り返す。おそらくそれはロックオンがハロに告げた言葉だったのだろう。普段なら耳障りに思えるだけのその声に、彼の柔らかな声が重なって聞こえる。
『ヒトリニナリタイ』
「……」
『イタッ』
痛みなど感じぬはずの球体を蹴って転がし、刹那は躊躇無く奥へと進む。そもそもこの区画は自分の部屋もあるのだ。それなのに何を勝手に占拠している。確かに暫くミッションは無いし、今回派手に動いた分大人しく潜伏しておけというのがスメラギの指示だ。それに背いているのは刹那だ。
ハロが大きな音で何か喚いている。警報音のようなものも遠くから聞こえた。文句があるならば実力で止めればいいのだ。デュナメスのサポートを務めるこのロボットならばそんなことは容易い筈。
不埒な侵入者を糾弾するように響く廊下で、刹那の脳裏に点滅しているのは数字の羅列だけだ。
死者。怪我人。行方不明者。
ガンダムの「成果」として時に示されるその数字の割合は、大抵気味が悪いほどバランスが整っていた。それはエクシアとヴァーチェが確固たる決意でもって総てを屠るのに対し、デュナメスとキュリオスは同じだけの意志をもってその数を最低限にまで減らそうとするからだ。それゆえに四機が作戦行動に入れば、その数字は大抵同じだけの比率を保つことになる。
先日のミッションで、確かにキュリオスは実質的な戦闘に参加しなかった。彼らはサポートにまわり、だからそのバランスが崩れたとしても不思議ではない。
だが、と赤く明滅する数字を思う。
ゼロだ。
生存者、ゼロ。それゆえにテロ組織の規模も基盤も正確にはわかっていない。国としては把握しているのかもしれないが、それを隠匿するために生存者数を伝えないというのは意味がない。制度の敵という意味ではガンダムと同じ質をもった存在だ。それではそれを駆逐したガンダムという存在が英雄になってしまう。ゆえに政府と新聞はソレスタル・ビーイングの焦りを詰り、無謀を説いていた。だが刹那にはそんなことはどうでもいい。
ゼロ。そして死者と行方不明者の数。
岩壁を穿つ弾痕の写真。ひとに向けられた圧倒的なちから。明滅するゼロ。警報音。
刹那はノックもせずにロックオンの私室のドアを開ける。何の抵抗も無く開いたドアの向こうから響いてきたのは耳をつんざくほどの警報音で、そこに居たのはベッドに寝転がっているロックオンだった。
立ち竦む刹那の前で、此方の存在に気が付いていないわけもないだろうロックオンはベッドに腰かけてペーパーバックを開いていた。前に見たことのある表紙だと思った。
「どうした、何か非常事態か?」
そう言って顔を上げたロックオンは、困ったような笑顔を浮かべて刹那を見上げる。何も変わらない、彼らしい振る舞いで。
変わらないという事実がおかしいのだ。
警報音は相変わらず、耳鳴りのように響いているのに。
「うるさい」
「すぐお前はそういうことを言う」
「違う。ハロがうるさい」
「あれ?」
それでようやくロックオンはその音に気が付いたようだった。おわっ、とか何とか叫んでから、慌てた手つきで毛布に埋もれたリモコンを引っ張り出す。どうもそれが解除装置だったらしく、程なくして警報音は消えた。まったく、何の為の警告だと呆れもする。
「うわー。びっくりしたー」
「驚いたのは俺だ」
「あー悪い悪い、いやだって暫く帰ってくる予定じゃなかっただろ、お前」
「何を考えていた?」
見覚えのあるペーパーバック。ロックオンは決して読むのが遅い方ではない。無人島暮らしの暇潰しに買ってきたような内容の薄いミステリならば、あっという間に読み終えて不満げに鼻を鳴らしてそのままダストボックスに放り込む。同じ表紙を見ることなど今まで無かったのに。
ロックオンは暫く文字を追うふりをしていた。刹那は立ったままそれを見ていた。
やがて彼はひとつ息を吐いてぱたんと本を閉じると、それをベッドに放り投げて自分も一緒にベッドに倒れ込む。
「ロックオン」
「何も。」
ベッドに横向きに倒れたままで、ロックオンは言った。
「ここ数日は何も考えていなかった。お陰でお前が此処に居る理由もさっぱりわからん」
「食事は摂ったか」
「わからん」
「ロックオン」
「刹那に言われるとは思わなかったな」
そう言って軽く笑ったロックオンは、食べたよ、と付け足した。いつ、とか、何を、とか、そんなことは何も言わなかったが、それを刹那はロックオンのように執着心でもって尋ねはしなかった。ただ彼の傍に立って、その横顔を見下ろした。
ロックオンは横目で刹那を見上げると、少し愉快そうに笑った。
「多分だけどさ、俺はお前に『お前はテロリストだ』って言われたら、それに納得してしまったらその場で頭蓋骨撃ち抜いて死ぬ」
「俺のいる理由はわからないんじゃなかったのか」
「今わかった。お前がそういうこと言いそうな顔してた。ティエリアみたいに」
そう言ってロックオンは放り出したままのペーパーバックをばらばらと捲る。読む気は最早無いのだろう。
刹那は息を吐いてその本を取り上げる。全然そんなこと思ってもないくせに、あ、なんて言って悔しそうに手を伸ばしかけるのから、遠ざけて勝手にぱらぱらと捲る。
「読みかけなんだけどね、それ」
「読んでなかっただろう」
「犯人わかっちゃって」
「なら言うな」
探偵は静かに迫り来る次の季節と、家賃を催促する大家の声に怯えていた。ならば探偵などという職を選ばなければいいのに、と考えながら刹那はページを捲る。
「何が言いたいのかわかったのに言われたくないならばそれを訊かなければいいだろう。俺はこいつを読んでいく──それとも今すぐ一人になりたいか?」
ロックオンは暫く黙って、ベッドの毛布の皺を見ていた。刹那はそれを横目で見ていたが、それにも飽きて視線を紙の上に戻す。そこに記された情報はフィクションであり、文化を知る以上に何の情報も自分にもたらしそうになかったが、とりあえずそれでいいと思った。ロックオンの躊躇いがちに伸ばされた手が、刹那のシャツの裾を掴んでいたから。
積極性に欠ける優しさ(相互いからの)