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針を待つ魚










 三歩。
 許容できたのは三歩だった。それだけを歩いて刹那は足を止めた。背後に続いていた足音も、それに合わせるようにして止まった。
 振り返れば華美なつくりではあるがどこか熱意の無い平板な印象を受ける、彼らガンダムマイスターが地上での集合地点にしている王家所有の隠れ家の廊下があって、つまりいつもどおりであって、その照明の下にいつもどおり妙に楽しげな表情のロックオンがいる。少し見上げる角度になることを不愉快に思いながら、恐らくはその感情が多分に表情に出ているのだろう、眉間に無意識にこめてしまった力は抜かぬまま問う。
「何故ついてくる」
「ついてって、俺の部屋もそっちだし」
「作業をしていただろう、お前のガンダムの」
「デュナメスは準備万端いつだって出れるさ。特別のミッションが入っていない以上はヘタにいじらない方がいい。違うか?」
「……違わない」
「なら自室で待機が間違いないだろう。緊急事態はハロが処理してくれる」
 それもどうか、
と、文句をつけようと思ったが、眉間に力をさらにほんの少し加えるだけで刹那は口に出さなかった。そういう小言はティエリアの仕事だ――それでこれが聞き入れるかどうかは置いておく。少なくともその方が効き目が強い気がする。大体、着陸後最低限のチェックだけをしてあとはカレルに任せた刹那が言えることでもない。
 ただ刹那はこのついてくる男を追い払いたかっただけだ。
 しばらく何も言わずそれを見上げ、いつもどおりににやにやと笑っている男を強かに睨み、しかし何も言わないのにまたさらに腹を立てながら、刹那は提げた荷物を抱えたままでくるりとまた向きを転じて自室へと歩く。
 続いてくる、足音。
 苛々する。
 何が苛立つかといえば歩幅だ。刹那が三歩でゆく後ろを、二歩と半分でついてくる。気にばかりしてゆくせいで、足音が妙にそろってくるのを刹那は強く意識して整えながら歩いてゆく。歩調を速めればさらにそのテンポは変わる。せかせかと動かす足取りは忙しなくとも逆に距離が稼げないで、それを嘲笑うように(或いは宥めるように)足音は間をおいて響く。だから意識をして歩幅を保つ。
 振り返り、振り仰げば、いつものように笑う男の顔にぶつかるのだろう。それが想像できるからまた腹が立つ。
 だから意識して振り返らぬように、気にしていない風を装って、歩く。装ったところで、どうせばれているのだ。
「日本はどうだった」
 ロックオンは柔らかな口調で言う。
 それがついさっき蹴りつけてきたアスファルトの道路の、その上に吹いていた暖かな風の雰囲気に似ていたと思った。そんなことを言い出せばどうなるだろうと思いながら、刹那は振り返らずに答える。
「変わらない――今回は暫く居たし、何度かミッションもあったが、表面上は何も変わらなかった」
「そんな感じだよなあ、あの国は。お隣さんとは仲良くなれたか?」
「変わらない」
「そんな感じだよなあ、お前も」
 ロックオンは諦めたようにそう言って溜息を吐く。何が変わるものか、と思うのだが、世界の問題が隣家の男との交友関係とどれだけ関わりのあるものか、まったくわからない。ついでに言えば刹那の思考のルーツは、あの(少なくとも見せかけだけは)平和な国と全く異なるところにあって、一緒にされてしまうのも納得がゆかなかった。とはいえ刹那はそれを突っ込んで尋ねようとも思わなかった。
 廊下を一つ曲がり、男ばかりが暮らしているせいでどうにも華の無い印象になってしまっている(というのはリヒテンダールの評であって刹那の感想ではない)区画へ入る。
 そこまで行けば刹那が此処で生活する時使っている部屋は二つ目にあって、ポケットに手をつっこみセキュリティキーを探る刹那のうしろにまで、しかしロックオンはまだついてきていた。
 流石に険のありすぎるものになっていると自覚できる視線で、眇めて見上げた男は妙に驚いたような顔をして突っ立っている。
「――何だ」
「や、ええと、あれ?」
 問えば恐ろしく間抜けな返事があった。
「何だ」
「俺じゃなくて?」
「何が」
 全く意味がわからない。
 刹那はそのままキーで部屋を解錠し、開いたドアをそのままに入る。まっすぐに部屋を縦断し、着替えやら携行銃やらの入ったボストンは床に放って、部屋を出た朝の忙しなさを思い出させるような、ベッドの上で乱れたままの毛布の上に持ってきた荷物をもうひとつ置く。どうせついてくるのだろうと思って開けたままにしたドアから、先ほどまであれほどにやにやとしていた男の気配はどこへいったものか、それとも最初からそんな顔をしていたのか、妙に不安げな足取りでロックオンは部屋に入ってきて後ろ手にドアを閉めた。
「あー、刹那」
「手は洗った」
「そうじゃあないんだけど」
 あー、と間延びした声で言ったロックオンは、一度天井を仰ぐとベッドの端に腰かけて、そのままずるずると床に座り込む。つくづくこの男は面倒くさい。うんざりと先ほどまで見上げていた頭を見下ろせば、ロックオンは低く小さく呻いた。
「恥ずかしい」
「何が」
「何でもないです」
 反射的に顔を顰めてしまったが、それで重ねて聞きたいほど興味がある話題でもなかった。刹那はベッドに横から腰かけると、置きっぱなしにしていた荷物を取り上げる。崩れやすいと言われていたけれど、エクシアのコックピットの端に置いていても中には何の損傷も無いようだった。
 それは、白い小さな箱だった。
 箱に上に取っ手がついていて、掌を組み合わせるように互いの端を引っかけ合っている個所を外すと一枚の紙が開くような構造になっていた。つくづくあの国のものは小器用にできている――そんな風に少し感心しながら中に入っている柔らかな紙を取り除き、入っていたプラスティックのフォークをまず取り出した。
「……どうしたんだよそれ」
 ロックオンの声はまだ小さく低く、えらく不明瞭だったけれどもとりあえず訊きたいことはわかった。
「最近行列になっていてなかなか買えないが、評価が気になると沙慈が言っていた――正確には沙慈の友人が、だが。それが丁度出るところで空いていたので、ひとつ買ってきた」
「……偶然?」
「偶然」
 そうあっさりと返事をしてやる。ベッドの端に頭をぶつけた男は床に向かって、おあー、などと喚いて鬱陶しいことこの上ない。溜息を吐いた刹那はフォークをそれ――ついさっき買ってきたカットケーキの鋭角の先端に突き立てると、掬いあげて身を乗り出し、ロックオンの鼻先に突き出した。あ、とまだ伸びていた声が止まって、振り返った目がまん丸く見開かれて刹那を見上げる。
 そのあきっぱなしになっていた口の中に、刹那は無造作にフォークを突っ込んだ。
 ぱくん、と音でもなりそうな勢いで、ロックオンは口を閉じて周囲の空気ごと捕えこむ。
「どんな味だ」
 むぐむぐとフォークを突っ込まれたままで口を動かしている男に訊けば、まだ自分を見ていた目がまた一度見開かれ、そうして目じりが下がるのがわかった。
 開かれた口から引き抜けばフォークにクリームの欠片も無い。つるりとしたプラスティックの表面をロックオンの視線が薙いで、それからまた刹那を見た。そうしてずるずるとベッドの端に隠れるように、頭ごと下がって消えてゆく。
 端から少しだけ見える褐色の髪が空調にさやさやと静かに揺れるのを、暫く見てから刹那はもう一度ケーキをフォークに掬いあげ、ベッドに伏せると手を伸ばしてそれを差しだした。
 床に沈んだ魚は躊躇いがちに唇で触れ、そうしてぱくりと食らいつく。答が釣りあげられるまで、暫くこうして遊んでやろうと思った。