スカイライン









 旧式のラジオの周波数を合わせて室外機の上に置く。
 ノイズ混じりの電波は陽気な流行歌をモノラルに鳴らす。低音の響かない、安っぽい音を彼は好む。小さくハミングしながら傍らに置いた洗濯カゴからシャツを取り出して、ハンガーにかけてパンと叩いた。こういうものは、最初から皺が無い方がいい。
 今日は天気が良くて、空にはぽつりぽつりとしか雲が無かった。長い雨が続いたあとの久しぶりの晴天で、こういう日は気持ちが良い。そんなに好きではない洗濯も、ヒットチャートと同じであっという間に終わる。
 番組はディスクジョッキーの陽気な挨拶で終わって、次のコーナーが始まるまではニュースで繋ぐ。最近は焦臭いニュースが多くて、聞いていて余り愉快な気分になれない。それでもこういう天気の下ならば、そんなに悪いとも思わない。
 ふと、手が止まる。
 聞こえてきたニュースが告げるのは、このところ眉を顰めるものとは違う意味で余り面白くないもので、タオルを洗濯ばさみに挟みながら反射的に空を見上げる。
 部屋を背にしてベランダから見上げる半面の空は、それでも階層の高い場所からだったから広く見えた。街を見渡せるこのスペースを気に入っている。とりあえずこの街に戦火は無い。世界の憎しみを連想させる何もかもは無い。空を走って届く冷たいニュースより他は。
 それでも世界の裏側には炎が上がっていて、或いはこの足元もいつかは崩れるのかもしれない。
 あのまっさらな碧い空が灰色に塗り込められて、そこに地上の炎が映る。
 薄っぺらな平穏。
 その向こう側に居る無数の憎しみと、ひとつの悲しみを思って目を伏せる。



 その空を閃光が裂いた。



『おつかれさん』
 地上に降りてきたエクシアを見上げて、ロックオンは陽気に声をかけてきた。デュナメスの傍らに降りて大きく手を振る男の声に、通信機越しとはいえ疲労の色の無いことを確認して、刹那は少し疎ましく思う。自分ばかりが駆け回って、という思いもあるが、それよりもあの距離の精密射撃を成功させて、緊張感もあるだろうし気力も消費しているだろうに、何ともない風であるのを見ると矢張り少し面白くない。得意不得意もあるのだが、自分にはできない芸当だと改めて思う。
『もっとも休んでる暇は無いけどな。今すぐこの辺の設備片付けて撤収だ。こんだけの規模の狙撃だからな、すぐに近くに駐屯してる軍隊の皆さんが目の色変えて群がってくるぜ』
「了解した」
『なァに、拗ねてんだよ』
 短い返事にすら自分の感情がのってしまっていたらしい。笑い声の混ざった声に、刹那は顔を顰めた。
「拗ねていない」
『そうか? まァいいさ、さっさと撤収しちまって基地でシャワーでも浴びようぜ』
「拗ねていない」
『わかったわかった!』
 そう言って両手を挙げる男を踏みつけてやろうかと本気で刹那は思う。こうやってからかわれる度に考えるのだが、この男はこれだけリアルな殺意を抱いている自分のことをまるで構わないように背中を向ける。
 あちらこちらのコードを手繰り、プログラムを弄り、エクシアに乗ったままの刹那にあれこれ指示を飛ばして機材をコンテナに積み込ませる。そういう場面は殆ど軽口を叩かない。刹那の方が集中しているから自分で意識から外しているだけだったかと思ったがそうでもないらしい。かと思えば見下ろすとハロを追いかけまわして遊んでいる。
「──何をしている」
『撤収、撤収!』
『テッシュウ、テッシュウ!』
 踏みたい。
 ははは、と軽い笑い声が聞こえてきて、刹那はやれやれと溜息を吐く。撤収作業は実際殆ど終わっていて、ばらされた機材を破損しないようにコンテナに積み込んでしまえば終わりだった。刹那の作業を待っていたということなのだろうがそれはそれで不満である。
 急いだ方が良いというのは否定できない事実であったので、刹那は最後の機材を積み込んでしまう。これで下のコンテナでロックをかけて、基地まで運びきってしまえば今回のミッションは完全に終了だ。
 妙なミッションだった。
 終わってしまったあとでそう刹那は思う。立案者はスメラギ・李・ノリエガだが、ミッションを薦めたのはアレルヤ・ハプティズムだ。自分たちの攻撃が理由ではない、言ってみれば赤の他人である人命の救助。或いは事を大きくすれば人革連の失態として追求され、宇宙に駐留している軍隊の縮小に繋がったかもしれない。
 しかし、それはソレスタル・ビーイングの望む破壊ではない。
 手を出さなければ知らぬで通せたものだったのを、わざわざ身を晒して救った。それは確かに不要なものだっただろう。スメラギの指示の背後からティエリアの怒鳴り声が聞こえたから、あれは後で問題になるかもしれない。それに荷担した自分たちも、また。
 だが、不満はなかった。
 拗ねた、というのもロックオンの判断ミスだ。きっとこの男は、自分が戦う場面を与えられなかったことに不満を呈しているとでも思っているのだろう。そうではない。そうではないのだ。
 あの時。
 自分が切り裂いた雲の彼方に見えた空。
 何よりも宇宙に近くなった成層圏の内側で、中心に向けて深く濃くなってゆく青の彼方へ、光が突き抜けて奔ってゆくのを見上げた時。
 刹那はそれを追いかけたくなった。その彼方まで、その先にあるものを追いたくなった。
 自分たちは、この力で、世界を救えるのだ。
 未だ空を見上げるとその高揚がよみがえってくるような気がする。だから刹那は先刻から、空に背を向けて撤収に専念している。雲ひとつ無い青空を、その場に立ちすくんで、ただぽかりと空を見上げてしまうだろう、そんな気持ちのままでいるのだ。
「終わった。撤収だ、ロックオン──ロックオン?」
 コンテナに積み終わって声をかける。あとはロックオンがコンテナのロックをかけてしまえばお終いだ。
 見下ろした大地で、ロックオンは先程のように駆け回ってはおらず、ただひとところに立ちすくんで、俯いているように見えた。
 コンソールに向かうことも、刹那に返事をすることもしない。
「──ロックオン?」
『あー、うん』
 端的な返答。しかしそれだけで動きはない。続く言葉も無い。
 刹那は苛立ってくる。急げ急げと急かしたのは誰だ。いつ何処の軍隊が飛んでくるか判ったものではないというのに。苛立ちを含んで声が意図するよりも鋭く響いてしまう。
「ロックオン、」
『あー、ハロ頼む』
『リョウカイ!』
 ハロが陽気に跳ねてコンテナの方へゆく。その短い言葉にふと違和感を憶え、刹那はコンソールを操作するとハッチを開けてエクシアから降りる。
 反射的に振り返ったロックオンは、ぎゃあ、と妙な悲鳴を上げて踵を返しデュナメスの方へと向かったが、駆け寄って追いついた刹那はその腕をぐいと掴んで引き寄せた。
「せ、つな、これ違う、違うんだよ」
「何とだ。何故、泣いている」
 ぎくり、と掴んだ腕が震えるのがわかった。
 ロックオンは振り返らずに、答を失ったようにして立ちすくんでおり、刹那は逃げないようにその握る手に力をこめて、重ねて言った。
「何故だ。答えろ、ロックオン」
「──違う」
「だから、何と」
「違うんだ、これは、俺じゃないんだ」
 そう言ってロックオンは振り返る。
 その双眸から溢れていたのは間違いなく涙で、それなのにロックオンは困ったようにだが笑っていた。笑い顔のままで、涙を流していて、それは刹那には、酷く奇妙な光景に思えた。
 嬉しいから泣く、だとか、そんなものではなかった。
 表情は、いつも通りのロックオンで、其処に大きな感情の揺れは見えないというのに、眦からは絶え間なく涙が溢れている。何処かの機能が変わってしまって、止まらないとでもいうように。
「違うんだよ、刹那」
 そう言ってロックオンは頭を振った。その間も涙が溢れていて、地面に水滴が零れるのを刹那は見た。
「違うんだ──ただ、空が」
「空、」
「そう、空が!」
 そう言って、ロックオンは笑った。涙を流しながら、笑った。
「空が繋がっていたんだ。だから泣いてるんだ。だから──俺が嬉しいんだ」






現代かっていう。>前半に出てくる物品の諸々。