つまさき
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その声を知っていた。
何度と無く自分に、或いは誰かに。向けられているのを聞いたことのある声だった。何よりも近く、何よりも何度も。下手をすると空調のノイズやモビルスーツの軋む音なんかよりも、ずっとずっと自分の傍にあるものだったのじゃないだろうか。
それを聞きながら、ゆっくりと廊下を歩いている。
そう長いものではない。その場所まで遠いわけではない。自分だけが隔離されていたわけではないのに、この孤独感はなんだろう?
笑い声は遠く、それに応えるこえも遠くて、それに何となく、足が止まる。
この通路を歩ききればいいのだ。曲がり角まで到達すればいい。それができずに、足が竦む。それが酷く情けなくて、自分がもっと無力だった、ガキだった頃の気分になってしまう。
もしそう言えば、笑い声の主は、いやガキだぜお前、と言うだろうか。
それとも、そうでもねぇよ他の連中よりは、と言うだろうか。
どちらにしろ、その口調の含む笑みが鼓膜を打つ──或いは撃つ──ように思って、少し笑ってからもう一度足を振り上げ、振り下ろす。歩ける。
そうしてしまえば何の事はない。前に進むのは簡単なことで、何をそんなに躊躇していたのやら、まだ何処かに残っていた、名前をつけようも無い感情を、踏みつけるようにして前へ、前へ。
それでも一瞬足の止まった曲がり角の手前、止まりきれなかった足は喧しく足音を刻み、身体はまだ向こう側に出ていない筈なのに、笑い声は止まってよく通る快活な声が響いた。
「おはよう、ハレルヤ!」
そんな夢を見たのだ。
「──びっくりしちゃって目が覚めたよ」
そう言ってアレルヤは洗面台で自分の像と向かい合う。左右反転しただけの同じ像を映している筈なのに、その表情は何処か憮然としているように思えた。
何でだよ。腹の内側で声が拗ねたように反響する。
「だって足だけで判るんだもの。ねぇ、僕達はそんなに違う?」
「オレは出来りゃ顔から付け替えたいがな」
「それは難しいんじゃないかな」
せめて眸の色が異なっていることに、感謝するべきではないだろうか。一体何の采配やら、それどころか嫌味としか思えぬような振り分けだけれど。
もう顔も洗って、他人の前に顔を出せる程度には風体は整えてあって、それでも部屋を出ないのは、この問題を解決しておきたかったからだ。今となっては殆ど『身内』であって、ちょっとした奇行程度ならば意識を向けぬ連中揃いのガンダム・マイスターたちが相手とはいえ、朝食に添えられたスプーンの球面を見つめながら独り言を言うというのは流石に憚られた。
「それで、どうなんだい」
「……何が」
「夢?」
内側の声が、返事を止める。構わずにアレルヤは、向かい合う自分の顔に問う。
「それとも僕が寝ている間に君が歩いてた時? 朝じゃあなかったよね、昨夜のこと?」
……うるせェな。
声が、『声』という感覚よりも、腹の底で小さく唸るようなものになったので、アレルヤは少しだけ楽しそうに笑った。
何でだよ。また荒々しい声は表層の反応を咎めるように言い、アレルヤは余計に声を上げて笑う。
「んだよ、」
「どっちでもいいんだ。嬉しかったんだよ」
夢ならばそれを彼が望んだことだ。
事実ならばそれを、彼が披露したということだ。
何よりも、その、「らしくない」感じをアレルヤは笑う。
「──手前ェのだろ」
そこまで反論しなかった──腹の底で考えていることならば、ハレルヤにだってそれは伝わっているのだ──声は酷く掠れて聞こえた。
「……何?」
「夢だろうと何だろうと、オレのじゃねぇよ、お前の願望だっつったんだ。お前が結局、オレと線引きしたかったってだけなのさ」
「違うだろう、ハレルヤ」
だって、とアレルヤは掌で胸を抑える。
だって、線を引いたのは彼だろう?
そうしてそれを受け容れたのはハレルヤだ。
チ、と小さい舌打ちのような音。アレルヤ自身がそういう仕草をしたわけではない。そうやって不平を形に示さなければ気の済まない、それはハレルヤの稚気だ。
「オレぁ寝る」
「うん、おやすみ」
「いい夢みせろよ」
吐き捨てるような言葉だけ残して彼の気配は遠のいて、それはどういう意味だろうね、そう思いながらアレルヤは自室を出た。
廊下の向こうから朝の早い仲間たちの声が聞こえて、それに絶え間なくひとり分の笑い声が重なっている。愉快な気持ちになってアレルヤはずんずんと歩いていった。さあ、てのひらのかたちだけで、ロックオンは自分を見分けることができるのだろうか?
23話(或いは25話)後の時系列のことを書きたくなかったので、どうにもこういう感じになってしまいました。