融解









 手を伸ばす。
 触れる。
 そうするとロックオン・ストラトスは、少しだけ驚いたような顔をして、それからくしゃりと笑ってみせる。
「──どしたァ?」
 そう言って、柔らかい手つきでその掌を掴んで、それを剥がそうとする。動きはひどく滑らかで、静かで、激するところなど何ひとつ無いのに、その表情も、その力も。しかしその手ははっきりと刹那を拒否してくる。
 ごわついた皮革の感触が、指の骨の上の、皮膚が薄くなっているところを滑って、その乾いたかさかさとした感じが刹那はあまり好きでない。
 ロックオンが触れるやり方が、好きでない。
 何も言わずにその手の主を見れば、少しだけ面食らったような顔でまばたきをする。きっと本当はそんなに面食らってはいないだろう。すぐに笑ってみせるから、わかる。
「どうしたって、言ってみろよ」
 わかる。
 ロックオンは刹那が怒っていることはわかる。他の者たち、マイスターや自分たちを指揮する者、それ以外のあらゆるなにものよりも、ロックオンは刹那を理解する。
 だが、それだけだ。
 怒っている。悲しんでいる。好ましいとは思っている。刹那自身にすら把握しきれていない感情の色の線引きを、ロックオンは容易くしてしまうのに、その理由を理解しない。何を不快とするか、何を以て好意と判断するか、推理するのはきっと簡単なのに、そこにまでまるで手を伸ばそうとしない。
 本当は、わかっているのかもしれない。
 わかっているのかもしれないけれど、ロックオンはそれを把握する前に、簡単な言葉で刹那に尋ねてしまう。
 刹那は答えない。
 ロックオンは、仕方ないな、そう言って、笑う。
 常ならば。
 それよりも前に刹那はロックオンの手を振り払った。へ、と、さっきよりも驚きの色が濃くなる。見開いた海の色のめだまが、まじまじと刹那を見つめている。
 刹那はその色が好きだ。
 好きだから、手を伸ばす。
 滑らかな頬を、かさついた掌で触れる。皙く柔らかな肉が、ひくりと皮膚の下で震えるのがわかる。収縮して、声を出す。言葉に換わる。
「──せつな?」
「うるさい」
 触れる頬はひやりしていて、体温は色素に由来するのだろうか、とどうでもいいことを刹那は考える。親指の腹だけで、下の目蓋の縁をなぞるように撫でる。ただ怯んでいただけだった凪の海が、ふ、と警戒の色を強めて色を浅くした。
 ぞくりとする。
 意味が解らない、そう思っている。刹那はそれを理解する。
 こうやって単純な感情を載せて単純な表情で居る、そういうときのロックオンを、刹那は好ましいと思う。
 この男の感情の動きは、わかりやすいくせにまるで表面に顕れてこない。怒りも、困惑も、悲しみも。なにもかもが苦笑に似た薄っぺらな表情に包まれて、それを肩を竦めて散らしてしまう。わけがわからない。不愉快だ。
 だからそれを剥ぎ取ってやりたいと思う。
 思って、手を伸ばす。
 そのたびに、グローブを外さない乾いた掌が優しく拒む。
 構わずに、手を伸ばす。
 もう一度、今度ははっきりと拒否をする力をこめて、つっぱねる。
 もう一度。
 もう一度。
 添えられる表情が単純になってゆく。苛立ちが怒りに換わろうとしている。瞳の温度が、酷く低いところにまで落ち込んでゆく。銃を構えて標的を見据える、その時の温度に近付いてゆく。
 そのたびに、腹の底が震えるように思う。
 ロックオンは時々、刹那のことを笑いながら、おまえはドーブツみたいだ、なんて言う。何の冗談だ。ひとの本質はけものだ。それは何も変わらない。刹那も。ロックオンも。
 その証拠を探して、刹那はロックオンの奥底へ手を伸ばす。
 草食を装う老獪なけものの、その柔らかく暖かそうな毛皮の下から、警戒しながら姿を現す冷たい肉食獣のめだま。
 冷酷で卑怯で臆病な、他者を食らって生きるもののめだま。
 刹那はそれを引きずり出して、そうして、触れる。
 両の掌に触れるその冷たさを、心地よく感じる。自分の掌の熱が其処に移ることを惜しみながら、触れて、そうして、近付く。
 身を乗り出して、その瞼の上に唇を寄せる。
「──せ、」
 吸いこんだ息は、偽の名前を呼びきる前に四散する。
 離れれば、揺らいでいた冷たい熱は消えて、幼い子供のようにただ驚愕と動揺だけを載せた海の色の瞳が、ぱちりとまばたきをする。
 よし。
 そう思ってもう一度反対側も。
 ぱちぱちとまばたきをする目玉は熱を含んでようやく笑い、それで刹那は頷いた。よし。