ミント









 早朝のマラソン、そしてその途中でニュース・スタンドに立ち寄り新聞を買い込んで朝食の後に目を通すこと。
 それは刹那の毎朝の習慣として決まっているらしい。共同生活を送るにあたって、その後半の項目については『朝食を食べながら』であったのを、ロックオンは一週間かけて修正させた。それは新聞をたたむまで朝食を与えないという少々子供相手じみた方法によってであったけれど、それなりに効果はあったようである。
 刹那の起床は全く同じ時間であり、そこから全く同じ時間をかけてそれらを執り行う。殆ど偏執狂のようだとロックオンは思っている。起床して、顔を洗い、部屋を出る。それが毎日あまりに定刻通りにはじまるものだから、時々遅れたり止まったりそのまま一周しきったりしている安物の目覚まし時計よりも余程精度がよいくらいだと、ついには時計の針を合わせる方を放棄してしまう結果になった。
 もっともロックオンが刹那の習慣に何かしらつきあうのかといえばそれは皆無だった。同じ時間にベッドから出ることすらしない。せいぜい出かける頃にあわせて起き出して、いってらっしゃいを言うくらいだ。刹那のトレーニングは最早ロックオンにとって不要の域にあるものなのだ。現状をベストとするロックオンにはこれから育てる部分は無かったし、むしろ現状の維持を重要視した。だからこれは、口さがない連中が自分と刹那の日常を比較して、怠惰だとか不真面目だとか言うようなものではない。
 何よりもロックオンにはロックオンで重要なミッションがあった。それは走り回って帰ってきた子供に充分な朝食を与えるということで、実際そういう朝に刹那はよく食べた。そんなことに幸福感を覚えるのは男性としてどうだろう、という感慨も無いわけではなかったが、ロックオンはそれをとりあえず素直に喜ぶことにしていた。懐かない獣が心を許す様というのは、なかなかに好ましい。
 刹那が本当のところ、自分のおせっかいをどう思っているかなどわからなかったが、少なくとも慣れてきてはいるらしいというくらいには思えた。信念とエクシアより他のものを受け容れる余地が無かった彼のパーソナルスペースの、端っこくらいには引っかけてもらえているらしい。部屋は同じではないが隣の部屋のソファで毛布を被っていても、苛立ってそれを引き剥がさないくらいまでには。
 そのくらいまでに近付いて、だから彼のことも殆ど理解したようなつもりになっていて──だからいつも帰宅する時間になっても刹那が戻らないという事実に、つまり、ロックオンは今とても狼狽していた。
「──参ったね」
 そう1人ごちて困り果てたまま笑う。
 首に縄をつけて見ていなければならないような年齢でもなければそんな立場でもない。何よりもそこまで手を伸ばしてしまえば厭がるのは目に見えている。しかしロックオンから見れば刹那は「子供」以外の何物でも無く、ダイニングテーブルに頬杖をついて無意味に開いた携帯端末を閉じては再び開くという動きを繰り返してしまう。
 警察、などという物騒過ぎる上に自分たちの立場をまるっきり考えに入れていない単語を反射的に思いついてしまうのは何度目になるか知れず、ロックオンはそんな自分に呆れて苦笑を浮かべた。こういうことを考えてしまうのは悪い癖だ。それでもこうやって、ミッションへの待機期間とはいえ暢気に「家族」めいた生活を続けていると、まるで自分が子供の頃のような日常を許されているような錯覚を覚えてしまうのだ。
 そういうことを反省しながらもぽこりぽこりと浮かんでくる不安の泡を消し去ることはできず、殆ど本気の目付きで緊急ダイアルを呼び出しかけたところでようやくドアのロックが外れる音が響き、ロックオンはようやく安堵の溜息を零した。
「遅かったじゃないか。心配したぞ?」
 そう声をかけて、椅子にかけたまま背をそらしドアの方を見れば、いつもと変わらない素振りでドアにロックをかけなおしており、その相変わらずな背中に無駄に恥ずかしいような気持ちになってくる。馬鹿馬鹿しい。もっともこちらが赤くなろうが青くなろうが結局刹那は何も変わらないのだ。ロックオンの声にも此方にちらりと視線を向けただけで、特に何も言いはしない。
 変化を期待していたわけではないが、ひとこと何かあってもいいんじゃないか。そう思いながらもまあその辺の追求は朝食の席でも構わないだろう。どうせそのままシャワーを浴びるだろう少年のことは放っておいて、とりあえずは準備が半ばで終わっている朝食の準備を終わらせなければならない。かたりと椅子を押して立ちあがったロックオンは、だから背後に立っていた刹那の存在に気が付いて思いっきり悲鳴を上げた。
「うっわァ?!」
「──何だ」
 顔を顰めてそう言う刹那に、いやそれは俺の台詞よ、と心臓をばくばく鳴らしながらロックオンは思った。なにしろ驚き過ぎて膝が砕けてまた椅子に座ってしまった。時々思うのだがこいつは気配を消すのが巧すぎる。
 しかし間抜けに見上げているだけでは流石に芸がない。ロックオンは大きく息を吸って、吐き出してから、もう一度息を吸って訊いた。
「──どうしたの」
「いつものニューススタンドが潰れていた」
 そう言いながらテーブルの上に新聞の束を載せる。子供が抱えるには種類も量も多すぎたけれど、普段彼が持ち帰る量よりもいくらか少ないように思えた。
「俺が普段走っているコースに、この時間開いているニューススタンドは其処しか無かった。店番は無口な老人で、釣り銭を間違う以外は余計な詮索もしないし、良い店だった」
「ああ、そう」
 呆気にとられながらもロックオンは頷く。いやでもそれ悪い店じゃないの普通に、朝の急いでる時間に愛想の無いじーさんに釣り間違えられたらそりゃ無しでしょ。口から出かけた言葉はとりあえず引っ込めた。刹那の常識が他と少々ずれているのは今更指摘するまでもないことだし、それが刹那にとって良い店であったという事実は変わらないのだ。
「仕方がないから遠回りになった。置いてある種類も少ないし、店番の老婆は煩かった」
「あー、そうか。そりゃ、残念だったな」
「ああ」
 こくり、とひとつ頷いて、それから刹那は片手をついと突き出す。ん、と首を傾げてそれを見れば、どうも受け取れということらしく、苛立った顔つきでロックオンを見据える。
「お陰で釣りが余った」
「あー、や、逆にそれまでそのじーさんがぼってたとかそういうのか、も、」
 顔も知らない人物に対しての評価には失礼かもしれない、そんなことを考えながらも、苦笑しながら掌をだした、その上に、ばらばらと小銭が落とされる。
 それと、転がり落ちた丸い飴玉。
「──あ?」
「おまけだそうだ」
 そう言って、それで用件が済んだとばかりに刹那はくるりと踵を返す。いつも通りにシャワーを浴びるのだろう。ぽかんとてのひらの上の着色料に染まったちいさなまるを、見下ろしていたロックオンは間抜けにがたがた椅子を鳴らして立ちあがった。
「ちょっと、お前──おまけだったらお前んだろ!」
「声が嗄れていた」
「え、」
「朝、声をかけたろう。夜更かしをやめろと言う割に随分遅くまで電気がついていた。本を読むのもほどほどにしておけ」
 それだけ言い捨ててすたすたとバスルームに向かってしまった刹那を、立ちすくんだまま見送っていたロックオンはそのまままたぺたんと椅子に座りこむ。何度目だ。そんな間抜けなツッコミを、自分に入れる余裕すらない。
「どうしよう」
 そう言って青いかたまりを小さな硬貨と一緒に握りこむ。溶けてしまうかもしれない。そのくらい掌が熱い。顔も熱い。
「勿体ないじゃないか」
 こんなタダで貰った飴玉を、食べない方が失礼だろうし溶かしてしまう方が失礼だ。それでもこれを無くしてしまうのが、酷く悔しいように思ってロックオンは暫くそれを握っていた。刹那の示した欠片ほどのものを、自分の中に溶かし込むよりもただ形に持っていたいと思った。




正直書きたかったのは前半のひとりでぐるぐるしているロックオンの部分だったので後半ぐっだぐだです。