あいのな










 その変化が一体どういうところで起こったのやら、ロックオンには全く想像もできなかった。
 しかし、刹那が言ったのだ。
「お前に何かをやりたい」
 そう言われたときロックオンはそろそろ長くなりすぎた待機時間に飽きがきていたところで――珍しく、と言っていいだろう、ロックオンがそのような段階まで悟ってしまうことは、自分で言うのもどうかと思うが本当に珍しかったのだ――、おそらくは刹那もそうだったのだろう。こちらは決して珍しいとは言えない。たった一日二日でも、彼がエクシアから引き離されるのは苦痛であるらしかったから。
 淡々とした日常が経過するだけの基地での待機時間だ。しかもその日常というやつは、変化するでもない世界を手の届かない僻地から茫洋と見守るだけを意味する。そのくせネットワークを通じて情報だけは正確に迅速に入ってくる。くさりもするというものだ。
 くさらないためにロックオンは甲斐甲斐しく刹那の世話をした。朝昼晩の食事をつくってやったり訓練に出て行った間に部屋に侵入してシーツを引っ剥がして洗ってやったりついでに溜まった洗濯物を片づけてやったりそのままの勢いで掃除機をかけたり勢いのままに部屋を少々破損したりした。
 八つ当たりのようなものである。
 かといって刹那がロックオンの世話を必要としているわけではないし、どちらかといえば迷惑に思っていることは重々承知であったのだが何しろ八つ当たりだとロックオンが自覚しているので構わずやった。そういうわけでこの数日彼らの生活環境は、男子二人(と球形AI)だけで成立している日々とはいえ大変に清潔極まりないものであった。
 そんな日々の中で刹那が言い出したのが、前述の言葉である。
 正直に言ってしまえば――そんなことを言われても困る。
 真剣に困る。嬉しくないわけではない。何より反射的に抱いた感想が、うわあ、であった。テーブルで朝食を済ませて立ち上がったロックオンに、まだコーヒーのマグに顔を埋めていた刹那が言ったのだ。うわあ、とも、思う。そしてそこで思考が止まる。止まるというよりも自分で把握できないような高速回転をする。何を言いたいのだ、この子供は。いや、子供などと言えば怒るだろうけれど、この少年は時々こうやって、子供じみた論理の飛躍を見せることがあって(何しろこいつはガンダムだ)。
 そんなふうにコンマ単位で青くなったり赤くなったりヘタをすれば黄色くなっていたかもしれないロックオンを、しかし気味悪がるような失礼なことはせずに、刹那はしばらく見上げてからゆっくりと口を開いて、言った。おそらくは言葉の続きを。
「だが、思いつかない」
「……あー」
 与えられた空白で、ロックオンはようやく呼吸をすることを思い出した――つまりはそれを忘れていた――そうして、落ち着いてしまえばいつもの、大人ぶった、余裕のある人間らしい返答の準備ができた。
 だから、普段通り笑ってその癖のある硬い毛質の髪をくしゃりと撫でまわした。
「別に何もいらねぇよ、何だ突然、んなこと言って?」
「考えていた――お前に俺は貰うばかりだ。何かを返したい」
「別に何もやってねぇさ」
 はは、と笑ってロックオンは、刹那の前に寂しく置いたままになっていた、空のパン皿を自分のものに重ねる。ついでに刹那の両手に抱えられていた、空になったマグカップの取っ手に指をひっかけて取り上げれば、さっきまで満たされていたコーヒーと刹那の掌の熱がその側面に残っていた。頭を撫でてやるかわりにそれをそっと指の腹で撫でてみれば、刹那の髪のうちがわにある頭の、確かな熱とそれは似ているような気がした。
「言わせてもらえば俺が何かしたり何かやったりするのは全部俺のお節介だ。それをお前が甘受してくれんなら、それで十分ってことになる」
「受けたくはない」
「……成る程」
「だから何かをやりたい」
 受け取るだけなのは不愉快だというわけだ。できればやめろと言いたいのだろう。
 つまり搦め手を捜しているわけだ。それはそれで小賢しくて愉快だった。ふ、と小さく漏れる笑みを自覚しながら、ロックオンはそれでも意識して喜んでいる風を出さぬように――それが成功しているかは自分でも疑わしかったが――刹那を拒む。
「お前の持っているもので、俺が欲しいものなんてねぇよ」
 刹那が視線を鋭くしたのがわかった。そんな答など彼は求めていないのだ。しかしロックオンが理解しているように、刹那もわかっているだろうと思っていた。だから、刹那にもロックオンにやれるものが思いつかないのだ。だからこそ年少であることを盾にとって――恐らくはそれは最も刹那の嫌う方法であっただろうが――口に出して、問うた。そしてそれを、ロックオンは拒否した。
 怒らせたいわけじゃあないんだけどなあ、そう思いながらロックオンは笑みを深める。 「俺が持ってるもので、ハイと手渡せるもので、お前にやれるもんを俺が持ってないように。お前が何かくれるんだったら、俺が照準を合わせる為に少しだけ待つ、その一瞬くらいのものだろ。そうじゃなければ、そうだな、たとえば俺がお前のエクシアをガキみたいにして欲しがってみせようか」
「欲しいのか」
「いらね」
 あっさりと断れば余計に刹那が腹を立てたのがわかる。ロックオンはついに声を上げて笑った。
「そんな気難しい奴を二人も面倒見切れねぇよ俺は。ハロとなんとかやってけてるっていうのに、これ以上抱えられるか。お前はお前のガンダムを愛してろよ、刹那」
「ロックオン、俺は」
 そう言うと刹那はぎゅうと眉根を寄せ、そうして、き、と睨みつけるようにしてロックオンを見上げた。
 それは戦闘の前に世界を見回す時の、墜とすべき世界の矛盾を確かめるように見渡す少年の、その強さで、そのままでロックオンを見据えながら、言った。
「俺はお前に、名前をやる」
 そう、強く言った。
 ロックオンはその言葉の受け取り方のわからぬまま、少年を間抜けに見返す。刹那は何も言わなかった。ゆっくりとまばたきをして、遠くで秒針のきりきりと回る音を聞きながら、続く言葉を待って待ち飽きて、ついに声を上げる。

「――せつな?」

「そう、その名前を」
 刹那はそう言って頷いた。
「その名前は、お前のものだ」
「い、らねぇよそんなん。えーと、俺が刹那って名乗るってことか?」
「違う。それは俺の名前だ」
 わけがわからない。
 途方に暮れるロックオンに、刹那は、その名をくれると言った少年は、静かに言った。
「その名前はお前の名だ。俺はそれを借りて名乗る。名乗るたび、呼ばれるたびに、お前の呼ぶ声の形を思い出す。俺のからだのなかから出てきた不明瞭な音じゃない、俺が俺の名前として認識するのはお前の声で、お前の言葉だ。俺のことを誰かが呼ぶたびに、それはお前のもの呼ぶかたちを借りたものだ。この名前は、お前のものだ」
「……何だそりゃ」
 困惑しきってロックオンは呟く。
「別にそれは俺が貰ったってモンでもないじゃねぇか。つかどっちかっていうと、やっぱり俺がやってるっぽい」
「それもそうだな」
 こくん、と刹那は頷いた。どうやらそれは意識をしていなかったらしい。
 これだから子供の思考の飛躍はおそろしいのだ。そんなことを考えながらロックオンは舌の上にその言葉を転がしてみる。せつな。その名前を。彼のイメージに喚起される固く鋭いかたちとちがって、それはひどく柔らかく、甘いもののように感じられた。与えられた、彼の名前。
 唯一の正しいものとして、彼に受け入れられたかたちのことば。
「ならばお前の名前をくれ」
「――は?」
「それが対価だ。――ロックオン」
 そう、呼ばれた。
 ただの機能として、自分をひとつの機構として、この世界に名乗っているそれだけのかたちの名前を。
 息を吸って、世界でもっとも美しいもののように、隅々まで丁寧に、それを持つことを至上の幸福であるかのように、愛おしんで。
 総てが刹那の、この存在の所有物であるのだと、宣言するように。
 ロックオンは呼ばれた。その瞬間に、かあ、と顔が赤くなったのがロックオンにはわかった。
「やめ、キャンセル、チェンジ」
「何故だ」
「んな恥ずかしいやりとり抱えて仕事やってらんねーだろうがっ!」
 そうか、などと少し物足りなそうに呟く刹那からヨーグルトの入っていたボウルも乱暴に取り上げて、ああもう、とロックオンは腹の中で喚いた。ああもう、両手が塞がってさえいなければ髪をかきむしっていたところだ。
 まるで全身を口の中に放り込まれてねぶられ撫でられ愛されたように感じたなど――そしてその瞬間をおそろしく幸せに感じたなどと、口が裂けたって言えるものか。