夏の終わり









 日中はあれほど照っていた太陽がビルの地平に沈んでしまって、じりじりとアスファルトを灼いていたのが嘘のようだとすら思う。開け放った窓には涼やかな風が吹きこみ、部屋を駆け抜けて反対側の窓から飛び出していった。
 あれほど長かった夏も終わりかけていて、ゆっくりと日照時間を縮めている。朱に染まった空は、橙味を帯びた紫紺に充ちてゆき、蛍光色を思わせる派手な色彩は静かな夜の藍へ、やがては夜の漆黒へと熱を失ってゆく。それでも街は地上の光を空に向けて発し続け、刹那の知る完全な闇ではない、どこか白けて淡く発光するような天蓋が、そろそろ慣れてきた東京の夜の色だった。
 窓を開けた犯人であるロックオンはどうやらその時間経過と、そののちの夜を告げる風が好きらしく、しばらく窓辺で前髪を揺らしたあとで毎夜刹那に外へゆこうとごねる。
「だって昼間は暑いだろうが」
 というのが我が儘な男の言い分で、刹那としてはどちらが子供だと呆れてしまう。この程度の気温ならば、正直刹那には生温いという程度でさして応えない。湿度が高い時期は流石に閉口したが、それもおさまっていたのでむしろ心地良いとすら思えた。
 しかしロックオンはそれでもまだ不満らしく、暑い暑いと喚きながら空調の効いた部屋にこもっている。
 ならば自分の好きな街なり国なり、どこへなりとゆけばよいのだ。
 基地のある孤島は流石に外出すれば暑かろうが、同じように空調を効かせれば室内環境に大差は無いだろう。人間の発する熱量の無い分むしろその風は涼しいかもしれない。それもいやならばもっと北なり赤道の反対側なりに行ってしまえばいいのだし、その程度の自由が自分たちに与えられていないわけではない。すぐさまミッションに向かえるのであれば、むしろマイスターは点在していれば都合がよいだろう。
 しかしそれを刹那が言ってもロックオンは笑うだけだった。
「やだよ、寂しいじゃねぇか」
「それだけか」
「それだけ」
 ロックオンは当たり前のように言いきった。実際、アレルヤが基地に戻るのが来週だと聞いたので、それにあわせて戻るそうである。この男は、他人に寛容に見せかけてつくづく自分勝手なところがあった。
 そんな自分勝手な男は今きちんとしたシャツとちゃんとしたズボンを穿いて、それに似合うように身嗜みを調えて刹那を急かしている。
「なァ刹那早く行こうって」
「何処にだ」
「散歩!」
 不確定過ぎる。
 それでも息を吐いて昼間の陽気に乾いたシャツを引っ張り出したのは、これ以上この男に抵抗するのが面倒だったからで、それがわかっているのかいないのか、そんな刹那を見てロックオンは嬉しそうに笑った。



 散歩、と言ってしまえば本当にそれだけで、ロックオンは涼やかな街の空気を確かめるように目を細めて歩く。
 ネオンサインが続き人通りの絶えない大通りの熱気は好まないらしく、裏道や人気の無い筋を選んで突き進んでゆく。
 探るべき情報量の少ない、逆を言えば偵察する必要の無い、コミュニティの外部の人間が居れば目立ってしまうような空間は、刹那にはどうにも慣れない場所だった。入り込む必要の無かった空間、触れあう必要の無かった空気。そういうものに居心地の良い空気の中で触れるのは、確かに新鮮なものではあった。
 区画整理の途中で放棄されたような古い街並みはどことなく偽物のセットのようで、喧噪が遠い分余計に非現実感が強まる。
 それでも囲まれ追われたら右手の路地へ逃げ込んで、と咄嗟に考えるのは殆ど条件反射のようなもので、それからあの低層の生け垣を抜けて反撃の機会を待ち、とまで考えたところで傍らの男が小さく笑い声を上げたのに気が付いた。あまり愉快な気持ちにはなれず、思わず睨み付ける。
「──何だ」
「そっちはダメ」
 それは出来の悪い生徒を非難するというよりも、未だ知識の足りぬ幼児を柔らかく諭すというような口振りで、訝しげに思った刹那にロックオンはにっと笑ってみせる。
「そっちは私道で、行き止まりだ。逃げんだったら、左」
 そう言ってロックオンは刹那が意識を向けていたのと反対側の路地を指した。
「あっち行って、右。ちっといったらT字路があって、両方とも大通りに繋がってるから巧くやればまける。一般のご家庭のいきなり土足で駆け込む想定すんのはやめとけよ、せっかくのディナーを邪魔したら迷惑だろうが」
「何故、」
「だって書いてあるだろ」
 書いてはある。この地域ローカルの言語と簡略化されすぎた交通標識が、刹那の一瞥した道の先が行き止まりになっているのを示していた。また大通りを走る車の音は、遠いけれども確かに聞こえていたし、その振動がどちらを震源としているかも判断はついた。この辺りに生活しているくせにそこまでの判断ができなかったのは、確かに刹那のミスだ。だが。
「そうじゃない」
「ん?」
「何故俺が逃走経路を考えていると解った」
「刹那が今俺から逃げたくてたまんないだろうから」
 そう言ってロックオンは笑った。何事でもないように。
「だったらまずルート選択だろ?」
「だから俺の左を歩くのか」
 ロックオンの示した『正解』はそちら側にあって、つまりロックオンから『逃げる』のであれば彼の前なり後ろなりを回り込むか直接攻撃を加える必要があった。必要であるのならば後者の選択をすることに刹那はまったく躊躇をもたなかったが、それを防ぐという意図であればロックオンのポジションは納得のゆくものだった。
 しかしロックオンは、そんな刹那を見下ろして口端を上げてみせる。
「俺がこっちに居たいのは、単純に習慣だ。右手は庇いたいだろうが」
 そう言ってひらりと翻ったてのひらは、確かにいつでも彼のポケットにしまわれているのだろう銃へすぐさま手を伸ばせる位置にあった。反射的な行動を採る為には、確かにそれは不正解ではないだろう。
「お前がどっかに行きたいなら俺は止めんし何も言わんよ」
 ロックオンはひらひら動かしていた手を、敵意が無いと顕すように両方とも刹那に向けてみせる。
「そんなもんかと思って構わず散歩をするだけだ。土産に向こうの角のコンビニエンスストアでデザートを買おうと思っているくらいでね。シュークリームでいいか?」
「……デザート?」
「晩飯はその手前の店に誘おうかと思ってた。パスタは旨いし肉もいいんだが、甘いモンは不得意らしくてね。だったらコンビニで安いやつ喰った方がマシ──お前が来ないなら晩飯もコンビニのつもりだったが」
「俺よりも詳しいな、この街に」
「お前が世界を見なすぎるだけだ」
 当たり前のようにそう言ってロックオンは笑い、足を止めることも歩調を弛めることもなく歩いてゆく。それに並んで歩きながら、刹那はならば自分はどうするべきだろうと考えた。
 刹那はロックオンを誘って楽しませるような店を知っているわけではなかったし、コンビニでリクエストできるほど食べたいものがあるわけでもなかった。正しい道も知らず、正しい対処も知らない。前髪を揺らす風が額をくすぐる感覚の、気持ちがよいことも今日知った。
 しかしそれは逆にロックオンばかりが世界を見ていたのだということだと思った。
 刹那の──おそらくはアレルヤやティエリアもだろう、自分たちは共通して、そういった些末事に対して位置情報として以上の興味を持たない。そうやって誰も見ない世界を、ロックオンばかりが見ている。腕を引いてそれを伝えられても、興味がないから振り返りもしない。
 そうやって彼は、誰も居ない道を歩く。
「ロックオン」
「んー」
「寂しいのか」
 そう問えば、ロックオンは驚いたように足を止めた。進んでいた勢いを殺せず半歩つんのめってその長い足を一瞬絡めかけたが、無様に転んでしまうよりまえに踏みとどまって振り返る。
「──どしたの刹那」
「寂しかったのか」
 重ねて問えば今度こそ足を絡めたらしく、二歩ほど跳ぶように前へ進んでそれから刹那を見下ろしてくる。
「や、そうでもねぇけど、え、なんで?」
「来週よりも、もう少し此処に居ろ」
「え、わかった」
「明日は昼に出かける。マンションの裏に、ランチをやっている店がある」
「──えー」
 昼間のまだ衰えぬ熱気を思い出したのだろう、露骨に厭そうな声を上げるロックオンを見上げて鼻を鳴らし、刹那はまっすぐに歩き出す。ロックオンが行きたがっていた店はコンビニの手前と言っていたから方向性は間違っていないだろう。この男と同程度には、この辺りの地形や店の分布は把握している。たとえそれが、情報としてロックオンの見ているものと、異質なものでしかないとしても。
 それでも、それは乖離はしていない、踏み越えれば簡単に見せ合えることのできる、近いものであるはずだ。
「刹那」
「ああ」
 半歩後ろを歩き出したのだろう、近い位置から聞こえてくる声に、刹那は振り返らないで応えた。風は刹那の髪をかき上げて、ロックオンの指の触れるようだと思った。
「秋になってからじゃダメ?」
 その声が心底情けないものであったので、刹那は思わず喉の奥で笑った。そして来週、秋になっていればいいのにと思った。