とける









「や、其処で飲んでて」
 何処だよ。
「終電終わってさ」
 すいませんうち駅すっげ遠いんですけど。
「で、帰れねぇなあって思って」
 つかさっきなんか変な光とともになんかグオッて風吹いて変な音してそのあと消えたんですが。
「だから泊めてほしいなあと」
 笑顔でそんなことをぬかす実の兄と向かい合い、後頭部に縦横3ミリの陥没痕とか無いだろうかと割と真剣にライルは思った。キャトルミューティレーション的な。中身がまるっと違うとか。
 ベッドから飛び起きてカーテンを開けた時に向かい合った道路はまるで無人で何事も無かったように切れかけの街灯ばっかりがちかちかしてて、だがそのライトの下に自分とまるっきり同じ顔が立っていた時は流石にギャアと叫んだ。叫んでカーテン閉めて鍵をかけたらピンポンとベルが鳴るのだ。どういう冗談だ。
「──泊めるのはいいけど今あんた幾つ嘘ついた」
「3つかな」
「全部じゃねぇか」
「飲んでたのはマジだぜ?」
 酒臭いのも確かだ。じゃあ、嘘は、と指を数える。其処で、と、終電終わって、と、帰れない。
「帰れ酔っぱらい!」
「あはははははまあまあ!」
 たちが悪い。
 溜息をついたライルの横をけらけらと笑いながら兄の顔をした──つまり自分と同じ顔をした、男があっさりとすり抜けてゆく。酒臭い。というか、安い酒場の底の方に凝ったアルコールと油カスと反吐をぐちゃぐちゃに混ざて消臭剤をぶっかけたみたいな臭いがする。
 多分この臭いは暫く取れないのだろうなあ、とライルは溜息を吐く。
 ニールが、つまりこのひとが、来た時はいつもそうだ。
 いつもそんな品の悪い臭いがしているというわけではない。確かに大抵、酒気を漂わせていたけれど、もっと若い時はそうでもないこともあった(大抵は酒臭かった)。その臭いはでもいつも同じものではなくて、その時々でブームが簡単に変動するニールが好んでいるツマミ(大概調理方法が変わるばかりで食材は変わらなかったが)(つまり今はフライドポテトだが前はマッシュポテトだったというくらいの)と、ニールの住んでいる町の臭いがした。
 臭いはしかし、すぐに消える。風を通せばあっという間に消えてゆく。たかだか1日、長くて3日、留まるだけの気配などすぐかき消える。
 それを、残っているというのは、ライルが勝手に止めているのだ。
 彼処にあの臭いがした。彼の気配が残っていた。そういうふうに勝手に止めておいている。
 そうやって、臭いは暫く取れずに残る。
「ライル」
 遠慮する気は無いらしく冷蔵庫を勝手に開けて、ストックしてあるミネラルウォーターのペットボトルを一本抜き取ったニールは、行儀悪くテーブルに腰掛けると蓋を外してそのまま煽った。それからライルを見て、へらっと笑う。
「なんか苦労してねぇか。飯食べてる? 仕事はどうだ?」
「特に何も、飯はさっき食べた。仕事は楽しんでる」
「幾つ嘘ついた?」
「2つかな」
 そうか、と、ニールはあっさりと頷いて、それ以上を訊きはしなかった。ライルの方もそのつもりだったから、それ以上は何も言わなかった。
 ペットボトルをテーブルに置いて、ニールは、ライル、と笑う。
「頼みがあるんだけど」
「何だよ」
「頼むから引いてくれ」
「内容による」
「キスさせて」
「うわー」
 頼まれなくても引いた。
 くっと噴き出したニールはテーブルを離れて、呆れた顔で立っていたライルの傍まで何の躊躇いもない足取りで歩いてきた。まっすぐに、ライルだけを見て。へらへらと気持ち悪い笑い方をして。
 それを、例えば避けるとか、視線を外すとか、理由を問うとか、そういうことは多分、ライルにはできるはずだった。断るとか。
 それをしなかった。
 理由はない。
 ニールは宣言した数以上の嘘をつかない。ニールは酒を飲んでいるけど、酔っぱらってるだろ、と言ったライルには笑うだけでうんともううんとも言わなかった。それがわかったからといってそれはライルには理由にはならなかった。
 頼まれたのは引くことだけで、それ以外の選択肢はなかった。
 ニールは笑いながら、ライルに手を伸ばす。伸びた両手が、ライルの少し伸びすぎたまま切り損ねていた髪を耳の後ろに掻き上げて流す。邪魔にならないように。
 触れる唇。
 水に濡れた、冷たい唇。
「ライル」
 至近距離で紡がれる音。
 知っている距離だ。あまり自分では聞かない距離だけれど。
 自分の内側から響くような音で、自分から名乗るときに聞くくらいでしか聞こえない。誰かが自分を呼ぶときの声ではない。皮膚に内臓に筋肉に、内側を反響してそのまま鼓膜を共振させる、自分の声が自分を呼ぶ。
「ニール」
 同じ音で名前を呼べば、緑を映した緑色の目がすうと柔らかな弧を描いて細められた。そうしてすうと線は細くなって角度を変え、もっと深くへと引き込むようなキスをせがまれる。
 触れた舌で、ただ名前の音を叩いて。
 にーる。
 らいる。
 呼び合っているうちに名前が混ざり合って、どちらがどちらを呼んでいるのか、よくわからなくなってくる。まだ自分たちにそれぞれの名前がついているのだと知らなかったころの遊びだ。そんなことをぼんやりと思い出す。まだ自分がどちらだかわからなくて、名前を呼ばれるたびに二人同時に振り返っていた、それでいいんだと思っていた頃のような。
 にーる。
 らいる。
 それを疎んだのは確か自分が先だった。
「──ん」
 後頭部を撫でるように押さえつけるように触れていた手が、するすると降りてゆく。首筋をたどり、肩口を撫でて、背骨を辿るようにして指先が動き。
 ジーンズの縁に触れる。
「なに、」
「なんだろ」
「──なにそれ」
「いいじゃん」
 よくない。
 そう言おうとした唇は塞がれて、腰に触れた指が内側へと入ってゆく。
 ジーンズの縁、ベルトに沿わせるようにして前に回ってきた指がバックルを鳴らす。
 切羽詰まったような、性急な動きではない。
 触れる唇の、舌の速度みたいな、ゆっくりとした動きでベルトは解かれる。指先で擽るようにして、引き出したシャツの隙間から、腹を爪先に擽られる。
「──ぃる、」
「ん」
 笑いながらニールはジーンズの釦を外す。暫く履いて柔らかくなった布地は簡単に抵抗を諦めて、ジッパーの降りる硬質な音が、筋肉を伝って名前を呼ぶ声と一緒にくぐもった音で響いた。
 そして下着の縁に、触れる指。
 ちろり、としのびこんだ指先が、はらのやわらかなところに触れる。
 ちりりと下生えの触れるのがわかった。奇麗に切り揃えられた爪が、それを掬って遊ぶのがわかる。痛いくらいわかる。ぞわ、とよこっぱらを走っていった、冷たいような痛いような、痺れるのに似た感覚に思わず短く息を吸って、その息でライルは言った。
「ストップ」
「何でだよ」
 顔を離したニールが、不満そうに言う。ライルは生真面目な顔で、向かい合う同じ顔をした男に言った。
「晩飯の後にしてくんねぇ?」
「嘘はそこかよ」
 くう、と鳴った腹の音を聴いて、ニールは悲しそうに溜息を吐いた。