或るイメージ









 ロックオン・ストラトスはその子供のことを覚えている。
 嘘である。正確には、知らない。その子供のことをロックオンは知らない。知っているのはテレヴィジョンに映った虚像だけだ。
 まだ、幼いと言っていいくらいだろう。その時見ていた自分よりも、幾らか年下であるように感じたとおもう。そんな子供の姿が、黄ばんだ質の悪そうな印画紙に写しとられていた。
 少し困ったような、怯えたような、中途半端な表情だった。正面より少し上を向いて、薄く開きかけた唇が何かを言おうとしているようではあったが、その言葉が、例えばカメラを構えている誰かしらの名を呼ぼうとしてのことだったのか、それとも遠く彼を呼ぶ声に応えて何か返事をしようとしたものか。笑ってよベイビー、イヤだよ僕はクールに写りたいんだ、例えばそんなことを? どちらにしろ旧式のフィルムには音声を刻む技術を伴ってはいなかったし、最新式のやつだって、そういうものはなかなか持ち合わせていないものだったろう。

 ロックオン・ストラトスはその子供のことを覚えている。
 その子供と街角ですれ違った、その一瞬の邂逅を。
 それもまた嘘である。その出会いは、本当に、言葉通りに一瞬のことだったし、ロックオンは──そのとき彼は別の名前をもっていたが、その子供が走ったのだろう道筋を背にして駆けていた筈だった。だから、ロックオンはその子供を見てすらいない。ひょっとしたらその子供は道に迷い、或いは生に迷い、同じ道を何度も往復していたかもしれない──だからロックオンはすれ違った「かもしれない」、そういえないこともない。

 だが、ロックオン・ストラトスはその子供のことを覚えている。
 彼の面倒を見てくれた里親が、その日のニュースに気付いて慌ててチャンネルを変えるまでの、その一瞬。ロックオンの記憶の中に、曖昧としたイメージでしかなかったものの名前と顔と年齢とが生まれた。その子供が道を息を切らして駆けるイメージ。よく量販店で見かけるような流行りのかたちの、しかしどこか埃にまみれて小汚いように思えるアンバランスな格好で。強ばった表情、しかし緊張と宗教的高揚に目を爛々と輝かせて。
 ロックオンはすれ違う。その子供に目を向ける。頬に幾つか痕の残るニキビの数や、唇を震わせる祈りの言葉をイメージする。それは容易にロックオンの心に像を結ぶ。しかしロックオンは、ニール・ディランディは、その様に違和感を感じたとしても気に停めはしなかった。彼はその征く先に約束があって、それは他のものに譲ることのできない、子供の心を満たすに足るようなものだったからである。そしてニールは背後に、爆発音の響くのを聞く。



「──ロックオン」
 は、とニールは、ロックオン・ストラトスは自分を呼ぶ声に意識を向ける。
 直前まで彼が見ていたのは、走ってゆく子供の姿だった。膝までのジーンズに、少し丈の長い空色のポロシャツの裾を靡かせて、ボールを抱えて走る少年。笑い声を上げながら、その先で待っていた父親らしい男に抱き上げられる。少年と色違いのポロシャツの父親は、笑いながら彼の名前を呼ぶ。
 横には姉か妹か、少年と背丈の同じくらいの少女が、手を引く母親と同じ色のワンピースを着て見上げている。父親が少年を抱いた手ともう片方の腕に彼女を抱き上げて、視点の上がった子供たちは歓声を上げた。
 そのひとしきりを見送ってから、ロックオン・ストラトスは振り返る。アレルヤは困惑しきった表情で、ロックオンのことを見ていた。
「ロックオン、どうしたの?」
「あー──、や」
 言葉に詰まって頭を掻く。視線をきょろきょろと彷徨わせて、それから、言った。
「あの──、ポロシャツが、多分、こないだ見たやつで」
「お店で?」
「そう。えーと、確かこないだ寄ったセレクトショップの」
 うん、とアレルヤが頷く。
「そこのかはわかんねぇんだけど、ポロシャツ見て」
「うん」
「お前に似合うと思ったやつだから今度買ってやる」
「あ、いいんですか?」
「うん」
 やった、と笑う青年に頷きながら、ロックオンは首元を掻く。似たかたちのポロシャツを見たと思ったのも、それがアレルヤに似合いそうだと思ったのも、本当のことだ。ただ、ポロシャツにこの値段か、と思ったのも事実だったし、だったらこっちの、とストールを買ってやったのも本当のことで、ついでに言えばそちらもそれなりの値段がした。
 まあ、いいか、と思う。
 アレルヤはそれでもう重ねてロックオンに問うことはなかったし、ただ嬉しそうに、どんなのかなあ、などと言いやがるので、それはそれで可愛いと思えないこともなかった。今更前言を翻すというのも格好がつかない。
「ねぇロックオン」
「んー?」
「子供はきらい?」
 翻したろうか。
 そう思いながらロックオンは足を止めて、アレルヤを見て笑った。
「何でだ?」
「好き?」
「好きだよ、お前のことも好き」
「おや。ありがとうございます。僕もあなたが好きですよ」
「おや」
 アレルヤがにやりと笑うのにあわせてロックオンもにやりと笑ってやる。
「そいつは嬉しいな。ガキができたら名前はハレルヤにするか?」
「それは僕を呼んでるかハレルヤを呼んでるか子供を呼んでるかわからなくなるんじゃないかな。ハレルヤ厭がってるし」
「何だよ、心が狭いな」
「全くです」
 そこまでは生真面目な顔で言い合って、それで同時に噴き出した。親子連れはぎょっとしていないだろうか? 距離を置いて欲しいのは確かだが。
「子供は好きだよ」
 まだくすくすと笑いながら、ロックオンは応えた。アレルヤもまだちょっと笑っている。
「本当に?」
「ほんとうに。じゃなかったらお前らの面倒見ねぇよ」
「ひどいな」
「そうかね──ただ、ちょっと怖い」
 こわい。そう、アレルヤが鸚鵡返しに言う。んー、とロックオンは肩を竦めた。
「ちょっと怖い。ああやって突然走ってくると身が竦む。何か持ってるのとか取り上げたくなるし、何でもなかったとしてもすれ違ったあとで叫び出したくなる。後ろを見るのがすげぇ怖い──そんだけだ」
 だから、本当は今も振り返るのがちょっと怖い。
 遠のいた幸せな家庭の空気。それが瓦解する瞬間に怯えている。自分とすれ違った誰かの悪意──或いは祈り。呪詛。それが何で生まれるものかはわからない。手を伸ばしても届かないもの。手を伸ばせば届くかもしれなかったもの。止めることのできたかもしれない喪失。
「まぁだけどさ、基本好きだよ、子供。かわいいし」
「かわいいかな」
「お前はだいぶかわいくなくなっちまったけどな」
「ひどいな。かわいくない?」
「時々──拗ねんじゃねぇよ、かわいいぜ?」
 けらけらと笑ってロックオンは口を尖らせるアレルヤの頭に手を伸ばしてわしわしと撫でる。アレルヤは、うわあ、と悲鳴のような情けない声を上げる。
 そういうところは相変わらずかわいい、と思う。思うだけで言わないが。
「──まったく、ひどい」
 アレルヤは溜息をつき、ロックオンは笑いながら歩き出す。その一歩後ろをついてくるアレルヤは、少し後ろを振り返ったようだった。その視線が例えばさっきの親子連れに向けられたものか、そうではなく何か他のものを確かめたのか、ロックオンにはわからなかった。
 ただ、アレルヤは言った。
「ロックオン」
「んー」
「幸せそうだよ」
「そいつはよかった」
 ロックオンは笑う。心の底からそう思う。
 そうであれ、そう思う。
 アレルヤは少しだけ足取りを速めてロックオンの横に並んだ。そうして空を見上げて、あの色がいいなと言った。
「ついでだからあなたのも買いましょうか、おそろいにしよう」
「そいつは勘弁してくれ」
「それと、もしも突然あの曲がり角から何か貴方を悲しませるものが飛び出てきて、それが子供でも大人でもおじいちゃんでもあなたを傷つけるものだったら、僕は相手が何をしても貴方を守るために銃口を向ける」
「それも勘弁してくれ」
 そう言ってロックオンは両手を挙げた。降参。
「いいか──年寄りは大切にしろ。それだけ守ってくれたら、ペアルックでもなんでもしてやるから!」




実は子供が怖いロックオン、とか。