ティンダロスの猟犬









 刹那は、待つことのできる獣である。
 待て、と言われれば(そしてその言葉に納得をすれば)待つ。
 その正しさを知る獣である。
 息を潜め気配を殺し、静かに、待つ。
 その術は何度となく叩き込まれた。おまえは心臓の音すら煩いんだと、幼い頃に彼を鍛えた男は言った。その過去がよいものではない、決して幼い頃の思い出語りとして、好ましいものと受け容れられるものではない。ただそういういくつかの技術、よい戦い方をするための知識、そういうものはあの砂と硝煙に飽和した、乾いた空気の中で学んだものだった。
 待て、と言われればいくらでも待てる。
 賢しげな大人たちは、話を聞かないとか気が短いとか勝手に言っては刹那を叱るが、そればかりではない。
 必要であれば指示を待つことができるし、言葉も聞き入れる。
 聞き入れないということならば、その必要の無い言葉を、聞く気が無いだけである。



 傍らに、銃口がある。



 GN粒子を散布して姿を隠していても、そこにそれがある、その気配だけはわかる。
 銃口の主はグローブをはめた指を引き金にかけ不格好なスコープを覗いて、刹那と同じように息をひそめているのだろう。
 その姿は見えないけれど、その声を聞くように思う。
 まだだ。
 まぁだだよ、刹那。
 甘えるように声が聞こえる気がする。
 待つことに焦れる、息を乱す、そのたびにその柔らかな声が自分の名を呼ぶような気がする。
 酷薄そうな唇を笑みのかたちに歪め、好ましげに眼を細めて。子犬の喉元を擽るような柔らかな声が刹那を制する。
 まだだ。
 まだるっこしい回線など使わなくてもわかる。手を伸ばして頭を撫でてくる、乾いたグローブの感触まで伝わってくる。そんなことをして押さえ込まずとも、その手をはねのける気などないのだが、どうやら自分はそこまで信用がおけないらしい。
 思わず手を振り払おうと、手を上げてしまってその空虚に少し落胆する。
 あっても困る。
 そう思って、その思考にまた少し落胆した。そこまで自分はあの男の傍らに居たいわけではないし、相手の方もそうつきっきりでいたくもないだろう。
 そのくらいはわかっている。お前はいつも人の話聞かねぇ、首輪でもつけて括っておくか? そう困ったように笑う顔が簡単に思い浮かぶ。
「──うるさい」
 思わず口に出してしまえば、くすくすと笑う声が聞こえたような気がした。うるさい。
 息を吐いて、空を見る。
 その先に、敵が居る。
 それがわかっている。まだ早い。だが其処にいる。焦れる。気持ちばかりが沸いてくるのを押さえ込む。イメージするのはあの笑う男の横顔だ。
 こちらを見るときは柔らかな、優しい、ただ好ましいばかりのあるような、そんな表情で見る。しかし敵と定めたものを見る横顔の、その鋭い視線と口許に浮かぶ皮肉げな笑みを浮かべる。
 そして、しょうがねぇなあ、と言って笑う。
 その、しょうがねぇ、が、何を諦めるものなのかと刹那は思いながら横顔を見上げる。
 その先にあるものか。
 それを撃とうとする己か。
 或いはもっと違う何かか。
 それの判らぬまましかし問う明確な言葉も持たない刹那の視線に、気付いて少し驚いたような顔をして振り返るロックオンはいつものような笑みを浮かべて言う。まだだよ。
『──せつな』
 だから、繰り返し自分の名を呼ぶ通信を、自分のイメージの中から現れるかたちのないものであるように思ってしまって、刹那は返事をするまでに一呼吸分を無駄にした。
『刹那』
「どうした」
『待ち飽きたか?』
 その声は距離を隔てても相変わらずに、柔らかな、優しい、浮かぶ笑みのかたちさえ容易く脳裏に浮かぶようなもので、それに刹那は少し眉を顰めながら、応えた。
「飽きた」
『ははッ──報告がふたつあるから聞いてくれ』
「何だ」
『増援が来てるっぽい。ミッションのスタートが早まるぜ、喜べ』
「了解した」
 ふ、と息を吐く。それが笑い声と正しく伝わったのだろう。返答よりも先に笑う声がかえってきて、刹那は舌打ちをして訊いた。
「もうひとつは」
『ん、おれ今日誕生日』
 さらりと風が吹き抜けるように告げられた。
「──は?」
『お前とひとつ年が離れるな。喜べ』
 刹那は言葉を返せず途方に暮れる。ロックオンは相変わらずくすくすと笑っていたが、さて、と言ってその笑みを引っ込めた。口調ばかりは相変わらず浮かれていたが、その切り返す言葉でロックオンのてのひらが自分の頭から離れ、ぽん、と頭を叩いたように思った。
『そろそろ行きますかね』
「ああ──ロックオン、」
『んー?』
「おめでとう」
『──サンキュ』
 柔らかく笑う声が、刹那の頭を撫でる。それは結局、躾の良い犬の命令を聞く様を褒めるような、そんなイメージしか伴わなかったけれどとりあえず刹那はそれで構わないと思った。
 取り敢えず、此処でだけは。
『さて』
 もう一度、ロックオンが言う。繰り返す言葉の口調は変わらないのに、それも彼の動揺のように聞こえた。それを吹き飛ばすようにして四散するGN粒子。天を指す銃口。
『刹那』
「──」
『行ってこい』
 エクシアは飛翔する。大気を引きちぎるようにして粒子が走る。眼前の艦隊を穿つ光のかたまりを追って、命じられるがままの猟犬のように刹那は駆ける。
 良い子だ! 通信の遠くでロックオンを笑うのを聞いたように思った。
 望むのならば、と刹那は思う。もしその様を褒めるのならば、その眼前のものどもの生首を銜えてわらってみせようか。愚かで真摯なただの獣のように。
 そうすればロックオンは、彼を讃えて笑うだろうか。