みどりいろのせかい
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ロックオン・ストラトスのパイロット・スーツは緑を基調としているが、どうやら彼の指先は緑色をしていないらしい。
無論、比喩として。ロックオンの指はいたって正常な形状をしていて、何か色が其処だけ異なっているだとか、かたちがあらかじめ引き金に添えやすいようになっているだとか、そういうものではあり得なかった。
訓練を繰り返し、同じものを握り続けて、ある程度それに相応しいようにかたちを変えているということならば、確かに胼胝ができていたり皮膚が少し窪んでいたりする箇所を数える意味はあるかもしれないが、そういうことではない。
種を蒔けば芽は出ない。
花を買って来たら2日と立たずに枯れる。
昼寝にちょうど良さそうな気に入った樹を見つければ折れる。
つまりはそういうことだった。最後の項目についてはロックオンが何かしらのアクションを起こしていない以上、他の何よりも公園の管理者に責任があるようにも思えるのだが、ここまで続いてしまうと不運というより何よりも自分が悪いように思えてならない。
実際彼の指は、数えるのをそろそろ諦めてかけている程には他者のいのちを奪っていて、そのことに今更特別の罪悪感を抱くことも少なくなっていた。それはそれで人間としては、それなりの欠落であるのだろうけれど、それに支払うべき代償、代価を、ロックオン自身は常に覚悟していた。
しかしこの指先の触れた先の、植物がその性質の強弱に関わらず──道端の花から頑強を誇るサボテンに至るまで──関わってみた大抵のものを茶色く枯らしてしまうということに対しては、少なからず自責の念を抱いてしまったものである。
これの、かよわいいのちを奪う権利は、少なくとも自分には無い筈だ、と。
もっともそれが銃を手にしてひとの心臓を撃ち抜いた日、その日からはじまったと言うのならともかく、幼児期に庭の花壇を任されて見事に荒れ野と変えてしまったのが最初の記憶であるのだから(花が咲くのを楽しみにしていた妹などは大泣きに泣いたものである)、つまりは最初からその才能が足りなかったということなのだろう。最初から自分の運命のうちに、そう定められていたならば――いのちを奪い、絶やす指であれと――それは酷い業をもったもんだなと苦笑も浮かぶ。
ならばそう道を選ぶようになった根は、つまり家族の死は、自分の業の足元より這い出たものであったということか。
そこまでを考えて、ロックオンは自らが薄昏い笑みを浮かべていることに気付き軽く頭を振った。ロックオンはそこまで深く捻れた自虐趣味は持ち合わせていなかったし、それならばそれで自分だけを恨めば良いということになる。世界がそんな単純なものであればどれだけ楽だろう!
勿論世界はロックオンひとりが悲観に暮れて首を括ったくらいでしあわせにはならないし、それでロックオンの気が済むかといえばそうでもない。
明確に向けることのできる対象を与えられぬまま、ロックオンはとりあえず手近にある世界の歪みを怨み、指先に萎れるちいさなみどりを悼んだ。
それは昨日、缶詰などの常備食が尽きてしまったのに気が付いて買い出しに行っていたアレルヤが、マーケットの片隅で安く売られていたハーブの鉢がどう引っかかったのか知らないがやけに嬉しそうに買い求めたものだった。
生憎この家にはそんな緑を飾るに相応しい場所は存在していなかったし、ちょっとしたハーブを用いて何かするような手の込んだ料理を作ることは互いになかったので、ロックオンは暫く困惑したあとで、とりあえず台所の冷蔵庫の上にそいつを置いてみた。
「そこでいいんですか?」
「さあ。でもおまえわかるの?」
そう言うと不安そうにするアレルヤは、そうだけど、と小さく言った。どうにもアレルヤの方も正解を知らなかったらしく、つまりこの部屋には指先がくすんだ色をしているいきものしか居なかったらしい。豊富なデータバンクの中に植物図鑑まで収納した優秀な相棒であれば、或いはこのちいさないのちに対する正しい対応のやりかたを教えてくれるのかもしれなかったが、ハロは別の業務に駆り出されてしまっていた。
もっとも花の名前に美味そうか不味そうかくらいの意味しか見出さない男たちにいいように扱われるくらいならば、フェルトに美しいものの名前を伝える方がいくらかかれにも好ましい仕事であると言えるだろう。
そう思うと暫く不在である相棒の、普段近すぎるほどの距離にいるものがいないという所在なさも、どこか擽ったいような、悪くないような、そんな気持ちになってしまうのが不思議だった。とはいえロックオンはふと無意識に、小脇に抱えるべきオレンジ色の球体を探している自分に気が付いて、余計に所在ない気持ちになってしまうのだが。
そんなわけでワンコインで連れてこられた哀れなみどりはとりあえずの居場所を得た。
そうしてそれは、早速枯れかけている。
アレルヤが買ってきたのだからアレルヤが世話をすれば良いのに、とロックオンは少し押し付けるような考えをする。
実際には、勿論あの責任感の強い──強すぎるところのある青年は、実際は自分がやろうと手を挙げたのだ。それを止めたのはロックオンで、その理由は彼が思い切り小さな鉢に、お湯を注ごうとしたからである。説明を求めてみれば、寒そうに見えたから、ということだったらしい。そう言われてしまえばロックオンとしても、ひよひよと貧弱に揺れる様が寒そうに見えるのは確かだったしそれに対抗するだけの知識があったわけではなかったが、多分お湯は違うと思う。多分。
──萎れてるけど。
ロックオンは小さく息を吐いて、指先でおそるおそるその葉先に触れた。
とりあえず革の手袋をした指は、少なくとも他の連中に皙いの何のと評されるロックオンの指よりも茶色くはあったけれども、そのいのちをするすると吸い取って絡め取るような仕草は見せなかった。ロックオンとしても普段触れる手に吸い取っているだとかいうような意識はないのだから、ひょっとしたら何らかの悪影響は与えてしまっていたのかもしれないが。
それとも、毒かね。そんな風に思ってまた苦笑する。
多分、これを殺してしまうのは自分なのだろう。
これも。あれもこれも。なにもかも。そういうふうに割り切ってしまえば、意外にいろんな物事に納得できるような気がした。ありとあらゆる悲しみの、ありとあらゆるかたちについて。自分の触れる指先の、その先で死ぬものがある。
実際にはそういうことではないのだ。それはわかっている。
だがそういうことにしてしまえば、簡単だ。
そう思ってロックオンは自分の右の手の指先に、手袋を外した左の指の腹でもって触れてみる。
かさついた手袋の革。それに触れる朽ちた色の指。
骨の色をした指。
「──何を考えてるの?」
不意に声をかけられて、ロックオンははっと振り返った。キッチンに行儀良く並ぶ冷蔵庫の、その横に同じくらいの礼儀正しさで、まっすぐにアレルヤは立っていた。
右手に下げたトートバッグからは、買ってくるように頼んできた、バルサミコの瓶の口が飛び出ている。
「実を言うと何も考えてなかった」
ロックオンはあっさりとそう答えて笑った。アレルヤは浅い角度で首を傾げる。
「そんな風には見えなかったけど」
「そうかね──ああ、昨夜呑んだ分でストックしてたウィスキーが終わっちまったの思い出して、凄く悲しくなってた」
「最近呑みすぎだよ、あなたは」
「アレルヤがつきあってくれないからな。ひとりで呑まなきゃいけないから、たくさん呑まなきゃなんなくなる」
「僕のせいにするの?」
「全部おまえのせいだよ」
そう言ってくすくすと笑ったロックオンは、おかえり、と言って彼に近寄ると、持っているトートバッグを取り上げた。アレルヤは少しだけ拗ねたような顔をして、ただいま、と言った。
「理由を教えてもらえないことばかりのに、全部僕のせいにするのはずるいんじゃないかな」
「早く大人になってくれよ、アレルヤ。今すぐ、ジャストナウ」
「あなたのほうが子供みたいだ」
そう言うとアレルヤは息を吐いて、ロックオンの横に並んだ。そうやってみればアレルヤはロックオンよりも身長が高くなってしまったのを何となく意識できて、成る程、いま自分は悲しい気持ちなのだろうな、とぼんやりと考えた。そう思えばウィスキーの瓶が空になってしまったのも、それに気付くための事件だったのかもしれない。
アレルヤは少しだけ首を傾げてつくづくと、縁の撚れた葉先を見ていたが、うん、とひとつ頷いてポケットから小さな瓶を取り出した。それは知らないラベルが貼ってあって、緑色をしていて、中に何か液体が入っているように見えた。
「……何?」
「栄養剤だって」
そう言ってアレルヤは小瓶の蓋をあけると奇麗な色の指でほっそりとした茎をまとめて寄せて、小瓶をかたむけてから一滴、しずくを落とした。
「お店のひとに聞いたんだけど──僕らみたいな何も知らないのでも綺麗に育てる方法。成分を聞いてみたんだけど忘れちゃった。でも、これでいいんだって」
アレルヤの指先が、みどりいろに光っているように見えた。
勿論そのひとしずくで、花の色が美しくよみがえり、世界の色が変わってしまうようなことはなかった。それでも、ロックオンは空気がみどりいろにひかっているのを見た気がした。
「ウィスキーじゃなくてごめんね」
アレルヤは、照れくさそうに言って笑った。