おはよう









 ベッドから滑り降り、床に足をついて背伸びをする。
 薄暗い部屋の、カーテンの隙間からはまだ明け切らぬ朝の白々としたひかりが差し込んでいた。指先に厚い布地を引っかけて、少しだけ隙間を拡げてみれば、昨日まで拡がっていた灰色の雲はすっかり何処かへと引き上げてしまっていて、少し夜の名残を残した空はまだ何処か不満そうな色をしていたが、とりあえず午前中は晴れ間が見えるだろう。やはりロックオンの天気予報は良く当たる。
 夜のうちは躊躇いがちな街灯がジイジイと掠れた声を上げていたのだが、横目で見れば息が切れたとでもいうように静かに首を俯かせていた。
 それに少し笑ってアレルヤは、唇の動きだけでおはようと言い、それから裸足のままで寝室を出た。
 人の気配の無いリビングは、いつも何故か少しだけぽかんと開けていて、いくらか、ほんの数平方メートルという誤差だろうけれども面積が違っているように思えてしまう。
 その理由を考えながら、アレルヤはとりあえずカウンタで仕切られたキッチンに向かう。流しの横に伏せてあったホウロウのケトルを取り上げると、傾けてその口から蛇口の水を注いだ。
 蓋を開けないで水を満たすやり方を先に選んだのはロックオンだ。テクニックと言えばいいのだろうが、アレルヤはそれを手抜きだと笑った。そんなことを言っても結局倣っているのだから、笑う分際でもないのかもしれない。
 時折角度を間違えて、跳ね返ってきた水滴の冷たさに身を竦めながら、アレルヤは充分に水が満たされるのを待った。手にかかる荷重の重さでタイミングを図り、この程度というところまで待って水を止める。
 それからケトルをコンロにかけて、そっと火を点けてから換気扇のスイッチを入れる。棚からマグカップをふたつ出し、コンロの脇に並べてからアレルヤはコンロを離れて静かな足取りでリビングに入った。
 この家で最も大きくとられている、ベランダに繋がる窓のカーテンを開け放てば、空はもう薄い青に色を変えていた。
 それを見上げてひとつ息を吐き、それからアレルヤは窓の脇に置かれている革張りの白いソファに腰を下ろし、座面に足を上げて膝を抱えた。
 そのままの格好で、空を見上げる。
 冬の空は高くて遠い。
 ああいうところを翔ぶのは結構気持ちが良い。特に朝は。空気が澄んでいて、何処までも遠くが見える。MSのコックピットに映された、映像でしかない視界だけれども、それでもただ単純に、好きだ、とアレルヤは思う。
 だからそれだけを見ているのは悪くない。
 テレビは点けない。点けてしまうと、まだ寝ているロックオンを起こしてしまうからだ。
 いや、放っておくと昼過ぎまで寝ているところのあるロックオンは、しかし妙に気配に敏いところもあって、多分アレルヤがもう起きてここに居るということには気が付いている。
 それはアレルヤも一応わかっているのだが、それでもこの毎朝のルーティンを繰り返している限りは、ロックオンは起きると決めた時間までは少なくとも部屋から出てこない。
 テレビやラジオや、外からの情報、そういうものに触れてアレルヤの気持ちが揺らいだとき、淋しいとか、悲しいとか。そんな気持ちになってしまったとき。
 そういうアレルヤ自身すら気が付かないような小さな揺らぎを起こしてしまって、そのままの気持ちのままでひとりで居るアレルヤの横に、猫のように静かに起き出したロックオンが何も言わないで座るのだ。
 多分、それはロックオン自身すら意識していない場所での思考で、だからアレルヤはそれを申し訳ないと思う必要すらないのだろう。彼をはっきりと起こしてしまうほど動揺するようなときは、ロックオン自身も起きなければいけないような緊急事態だし、そうでなければロックオンは二度寝とばかりに、自分が起き出してきたという事実すら意識せずにソファで丸くなる。それはそれで、アレルヤの気持ちが落ち着いたのだということになれば、ロックオンが満足できる時間なのだ。多分。
 だがそれでも、ロックオンの眠りを阻害した一瞬があったのだという、その事実だけは間違いがなくて、だからアレルヤは何も考えずにこうやって水が沸騰するまでの短い時間を待つ。
 この時間が、結局好きなのだろう。
 ケトルがしゃんしゃんと明るい音を刻むのを聴き、アレルヤは立ち上がってキッチンへ向かう。そうしてゆっくりコーヒーを淹れる。
 豆は先週街に出たときに喫茶店で飲んだものが気に入って、種類を聞いて同じものを買ってきた。流石に店で出されたものと同じ味ではないけれど、それでもなかなかよいものを選べた気がするので次もこれにしようと思っている。店先で何も迷わずに、これ、と指定できるのが通にでもなれたような感じがして、嬉しいような恥ずかしいような、ひどくくすぐったい気持ちになる。
 準備したカップはふたつ。それぞれに丁寧に淹れる。残りのお湯はポットに移した。
 片方にスプーンいっぱいの砂糖と冷蔵庫から出してきたミルクを注いだ。スプーンで軽くかき混ぜてから、カップをふたつ持ってリビングに戻る。
 ソファの前のローテーブルにカフェオレが入った方のカップを置く。昨夜呑んでいたウィスキーグラスが、テーブルの上にはそのままで置いてあった。アレルヤはそれに少し笑いながら、ソファに座った。
 さっきまでと同じ姿勢。揃えた膝の上にカップをのせて、ふう、と湯気を一度吹き散らかしてからアレルヤはブラックのコーヒーを一口舐めた。
 美味しい、と思って、わらう。
 こういうときに自分はわらっているのだと、自覚したのはそうロックオンに指摘されたからだ。あ、おまえいまちょっとしあわせとか思ったろ。そう言われてひどく驚いたのを覚えている。
 何でわかったんですか──そう言って目を丸くしたアレルヤに、ロックオンは爆笑しながら答えたのだ。だっておまえ、わらってるじゃねぇか!
 それまでアレルヤは、自分がわらったりできるようないきものだと思っていなかったから、そう言われてそれなりに驚いたのだったが、そう正直に言ってみるとロックオンの方が驚いたような顔をして言ったのだ。おまえ、結構わかりやすいぞ?
 多分アレルヤが意識をしないで笑えるようになったのは、ロックオンのせいだ。
 そういうものになれたのは、ロックオンと向かい合っていたからだ。何となく、アレルヤはそう思っている。ロックオンにそう言ってみたことがあったが、ひどく困ったような顔をして、そうかなあ、と首を傾げられたのだが。
 アレルヤは空になったカップの底を見下ろして、ふう、と満足げに息を吐き、床に足を放り投げるようにして下ろして立ち上がった。そうして数歩だけ歩いてローテーブルの脇に立つと、少しだけ考えてからカップをテーブルの、夜から置き去られたままのウィスキーグラスの横に置いた。
 かわりにカフェオレの入ったカップを取り上げて、両方のてのひらで支えるようにして持つ。室温に冷やされたカップは、それでも温いと評せる程度には熱を保っていた。
 ソファの縁に引っかかるようにして座り、マグカップの端からちびちびと舐めていると、がたり、と大きく何かの動く音がした。視線を動かせばその先で、さっきアレルヤが出てきたのとは別のドアを重そうな手つきで開けて、ロックオンがのそのそと出てくるのが見えた。
「──おはよう」
「おはよう」
 短い応酬。返事をするより前にロックオンはくあ、と大口を開けて欠伸をした。それからキッチンへ入っていって、さっきアレルヤのポットに移しておいたお湯を、マグカップを出して注ぎ、それにティーバッグを落とし込んでから、適当に引っ掴んだのだろうパン皿をひっくり返して蓋にした。それからもう一度欠伸をして、ふらふらと妙に浮ついた足取りで、バスルームへとむかっていく。
 それだけの一連の動きが、遠く薄暗いカウンタの向こう側で為されるのを見送りながら、まだ半分寝てるらしいね、とアレルヤは空になったカップをてのひらに転がして考えた。
 ロックオンの朝は単調な繰り返しだ。アレルヤはひとつひとつの意味を確認するようにこなしてゆくのとは違っている。
 あまり寝起きのよろしくないらしい男は、目覚ましの力を借りてベッドから転がり落ちると、シャワーと濃いミルクティの助力を得てようやく人間らしい活動を開始する。
 それでいて他人の気配には気が回るのだから、面倒なものだ。もっとも何かしらあったとしたって飛び起きて、他のもの以上に駆け回ったところで、そのあとぱたりと倒れて前後不覚に陥るのが常なのだからそれはそれで寝惚けているのと同義なのだろう。それはそれで余計に扱いに困るのだ。
 タオルを首に引っかけてバスルームから出てきたロックオンは、それでももう一度未練たらしく欠伸をすると、キッチンへと戻ってティーバッグを流しに投げ捨て、冷蔵庫からさっきアレルヤの使った残りのミルクを取り出して注ぎ入れる。それで空になってしまったのだろう、紙パックを潰してゴミ箱に投げ込み、リビングへとぺたぺた歩いてきて、それからようやくアレルヤと顔を合わせて笑った。
「おはよう、アレルヤ」
「さっき言ったよ」
「言ってねぇよ」
 アレルヤはまばたきをして、ついさっき自分の──自分たちの横を通りすぎていった男の寝惚けた横顔を思い出した。それから、くしゃりと笑って答えた。
「そうだった──おはよう、ロックオン」
「ん、おはようおまえら」
 そう言ってロックオンは、もう一度、いい加減諦めればいいのに欠伸をした。