知らない掌
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寝返りを打って指先の触れたのが、慣れた感触の、しかし慣れぬ温度であったので、刹那は薄く目を開いてそれを確かめた。
汗を吸って少し乱れたシーツの上に、落ちていたのは柔らかくしなやかな手触りの革の手袋で、それが片方だけ、熱も中身もなくただあった。
指と視線で探ればもう片方もそう遠くないところにあって、手を伸ばして触れて、その持ち主が自分に対してするように、指を絡めてみる。自分からそうすれば青みを含んだ翠の目をひどく驚いたように見張るだろう、その様が目に浮かぶようだったが生憎持ち主は相変わらずに不在で、こんなことをしていると知れればさぞかし悔しがるだろうと刹那は考える。
手袋に熱は無く、放り出してからだいぶ時間が経っていると知れた。その指の、ひとつひとつに指を絡め、手繰り寄せる。それだけで、この主のてのかたちを思い出す。
いきもののものではない、死んだ獣から剥ぎ取った死んだ組織は、いくら触れていてもそのうちにあるのはうつろで、刹那は記憶と違い物足りぬ感覚に軽い苛立ちを覚えた。眼を伏せれば触れる感覚だけがリアルだ。物足りないなど思わなくとも、視覚を断てば簡単にドアの向こうの歩き回る男の気配は手繰れるのに、触れられるものは死骸だ。つまらない、と、思う。
指先に触れる革にはやがて刹那の体温が移り、ドアの向こうの気配が近づく。静謐を心得た手つきでノブが回され、猫のような足取りで忍び込んできた男がベッドの傍まで歩み寄ってきて、呆れたように擽ったそうに、くすりと小さく笑ったときも、刹那は相変わらず瞼を閉じたままでいたが、それでも指先に捕らえたままだった手袋は離さずにいた。
伸ばされた手が一度だけ刹那の頬に触れて、離れる。次いで刹那の指に伸ばされて、それを丁寧に剥がすようにしながら手袋を取り上げるのを、刹那は特に抵抗もせずされるに任せて、ついに完全に手から離れてしまってからようやく目を開ける。面白そうに笑った男とは、それでようやく眼があった。
「狸寝入りか?」
「いや」
「嘘言え。起きてただろ」
自分は本当に『覚醒』と言うには程遠い位置にいたのだ。寝ぼけ眼で何も考えず手袋なんぞをいじっていたのだから、それが目覚めなどとは到底言えたものではない。
だが、まあ、構わない。
意識はあったのだし、何か不審な出来事――例えばこの男を視界からだけでなく、気配まで見失うだとか――があれば、何の不足もなく活動を開始していたはずである。それをしなかったのだからつまり、自分を覚醒させなかったのはこの男のせいだということになる。
そんなことを考えながら、ちろりと視線だけで見れば、それを視界の端に捉えたか、手袋をはめていた手を止めて愉快そうに男は笑った。
「おはようさん。朝飯できてるぜ」
「ああ」
そう返しながら、刹那はベッドから身を起こさない。
白いシャツとそこからのびるしろい腕を見ていた。
決して見慣れぬものではない。むしろそろそろ見飽きたほどのものである。男は、商売道具を護るために革を纏いながら、そのうちを存外にあっさりと晒す。いまもそうだ。
彼が開け放ったのだろう窓辺のカーテンが風に揺れて光を零す。精巧で繊細なつくりの指に光が透けて、そのうちがわを赤い血の通い、鋭敏な神経がひかる様を見たように思った。音もなくおさめられてしまった指先を少しだけ惜しみながら、刹那は彼を見上げて名前を呼んだ。
「ロックオン、」
「うん?……っ、わっ」
こちらに視線を向けようとしたロックオンの、警戒の生まれぬうちに刹那は飛びつく強さでその白い手首に手を伸ばした。獲物に飛びつく捕食者の速さで引き寄せた腕の主は予想外の勢いにバランスを崩し、刹那の横になった腹の上に無様に転げる。
完璧にバランスを取り損ねた、自分よりも体格の余程良い男の体重がもろに降ってきて、刹那は思わず息を吐いた。それが伝わったのだろう、ロックオンは慌ててベッドに手を付いた。
「重かったか、悪い! どっか痛めてないか」
「……問題ない」
実際不意を衝かれた以上に衝撃はなく、そもそも衝いたのが刹那なのだかは文句の言いようもない。ロックオンもそれに気づいたのだろう、ベッドの上に身を起こして、愉快そうに笑った。
「自業自得だぜ。まったく、どうしたんだ?」
「お前が遅いのが、悪い」
「あ? 寝ぼすけが何言ってやがる」
普段ならば刹那の方が先に目覚める。
確かにそれが日常であったけれど、そうでない日もそれなりにあった。トレーニングが不要であると判断すれば構わなかったし、雨がだらだらと降り続く季節などはむしろベッドから起きる気もしない。しかし怠惰故のことではなく、要はそれを必要としていないからに過ぎなかった。起きるのが遅くともそんな日に相応のトレーニングはあるし、ロックオンはそうやって眠る刹那をむしろ好ましいものとして見ているようで、刹那を起こそうとすることもとりたてて無かった。
今日もそうだ。
寝ぼすけ、などと言っておきながら、見下ろす視線は柔らかい。
ロックオンだ。そう思う。
硬質で無機的な彼の名を、はらのうちで反響させながら刹那は思う。その、彼の『機能』のみを特化させ凝縮したような名と、彼のあたたかな色の瞳とのイメージは、決してイコールで結ばれはしなかったが刹那にとってそれ以外のなにものでもなかった。
もしも自分がそのようなものの手にかかって死ぬのならば、思い出すのはこの色だろう。
刹那はそんなくだらないことを考えながらロックオンの皙い頬に手を伸ばした。はだの裡を染める色素は自分と彼とでだいぶ違う。皮膚を近づければ、自分と彼との差異は明確になる。彼のようになりたいとも、また彼が此方側に近付けばいいのにとも、刹那は思ったことはなかった。なかったが、それなりに淋しいと思うこともあった。
「どうしたよ、刹那?」
甘やかな声が名前を呼んで笑う。
言葉に反して、伸ばされた手をロックオンは拒もうという気配を見せなかった。ただ触れられるに任せて目を細め、刹那を見る。
もしも自分がそのようなものの手にかかって死ぬのならば、この瞳の色を思い出して死ぬのだろう。
冷たい銃口を見るたびに、自分は彼を思い出すだろう。
それはひどく幸福なことに思えて、刹那は目を伏せる。
「──あんただ、と思った」
「うん?」
「それを、してないときはあんたじゃない」
そう言って示したのは、ついさっきロックオンがいつものように身につけた薄い皮の手袋だった。ん、と不思議そうに首を傾げていた男が、刹那の視線を追って、可笑しそうに笑った。
「なんだそりゃあ? いつだって俺は俺だろうが」
「違う」
そう言って、刹那は手を彼の頬から下ろすと、自分の顔の横に突かれていた手の甲に触れた。取り上げようと指を絡めれば、それだけで何も言わずともわかるとばかりに、支えにしていた体重は引かれて、うすっぺらなてのひらは刹那の手の内におさまる。視線で見上げればロックオンは心持ち得意そうな表情をしていた。
「さっきまであんたじゃなかった」
「じゃあ何だよ?」
「知らない」
そう言って、指に触れる。
刹那は、彼の指の感触を知らなかった。
いや──違う。知っているのはこの指だ。優しく、切なく、自分に触れる指。細く、強く、引き金をひく指。かたく、やわらかな、いちまいの革のうちの指。
ひらひらと舞う皙い指の、そのうちがわを刹那は知らない。それが何から彼を護り、何から彼が逃れているのかを刹那は知らない。それを風に泳がすことで、どれほどの機能を失うのかなど考えもしない。
ただ、少なくともロックオンだと理解しない。
手袋だけを指先に見つけたときに、刹那は何となくそれがロックオンであるように思った。それだけでも構わないと思った一瞬があった。実際この男は騒がしいし口うるさいし無駄が多いし、ひょっとしたら目玉と指さえあればそれ以外自分には不要なのではないだろうかと思うことも多くあった。その内側に抱えているのがただ空虚な空気だけでも。
ただそのうちがわにひとを容れて、そうしてうすっぺらな手袋が『ロックオン』になったときに、それが妙に安堵を呼んだ。
ロックオンだ、と思った。
「──俺はあんたを必要としない」
そう言って、刹那は視線を上げて、その皙い膚の男を見た。少し面食らったように表情を硬化させた、本当は目付きの鋭い優しさの欠片も持たないような顔の男は、2回まばたきをしてから困ったように笑った。
「酷いな」
「事実だ」
「俺は結構お前のこと好きなんだけどね」
「それはあんたの勝手だ」
そう言い切って、刹那はそれでも離せなかったてのひらを見た。薄い皮の内側で、皮膚の色は何もわからなかったが、そのてのひらのことは知っていた。それがかさかさと、少し乾いた音を立てて、自分の硬い質の髪を掻き回す感触を知っていた。
「俺はあんたのことしか知らない」
刹那はそう言うとかわいたてのひらに顔を寄せた。ひくりと動いた指先に構わず、少し磨り減って毛羽だった感触の皮に唇を寄せる。
皮を隔てて内側に、血の通っているのは知っていた。
「俺はあんたのことしか必要としない。だからあんたのことしか知らない。あんたがどうして俺のことを好くのかは理解しない、ロックオン──『お前』のことだけはわからないし、わかるつもりもないけれど」
この皮膚を。
刹那のいろに、少なくとも彼の本来の色よりも、色彩の近い皮を。
愛おしむように唇で触れて、刹那は小さく呟く。
ロックオンは、擽ったがるようにてのひらをもぞりと少しだけ動かして、それから苦笑を滲ませた声で言った。
「──『おれ』が、お前のこと好きなだけなんだけどね?」
「そんなもののことは知らない」
「酷いね」
「お前ほどじゃない」
そう言って刹那は不思議そうに此方を見る男を見上げた。
「俺が何を思って何を誓って何を理解して──あんたを好んでいるのかを理解しないで俺の全てを好くと言う、お前ほどじゃない」
少しだけ驚いたようにして刹那を見下ろして、一度口をぱくりと動かした男は、そうかも、と乾いた声で言った。