白を思う









「道理で冷えると思った」
 そう言ってロックオンはカーテンをあけた外を示す。
 窓から離れた方のベッドで毛布に入ったままだった刹那は、半身を起こして不思議そうにロックオンを見る。
「何だ、」
「雪だ」
「……雪?」
「知らないか?」
「知ってる」
 雪、という単語があまりにも舌に馴染みがなくて、丁寧に発音したのを察したのだろう。面白がるように言うロックオンの口調に余計に腹が立って、刹那は窓辺へ踏み出しかけた足を動かさずにベッドに座り直す。何の警戒心もなく開け放ったカーテンの間から外の様子を見るロックオンは、そちらに夢中のようでまるで振り返りもしなかったが。
 明るい部屋の中からは、刹那の角度から見える窓はただ灰色に塗りこまれた枠組みでしかなく、その状況を雪と呼ぶのならばあまりおもしろくない景色だとしか思えなかった。大抵の物事を面白がる軽薄な男だからこそのこの過剰反応なのだろうと、窓に張り付く男を見て考えながら、刹那は固い口調で言う。
「それなら明日のミッションは延期だろうな」
「ん……ああっ?」
 突然襟首をひっつかまれて引き戻されたみたいに、あわてた調子で振り返ったロックオンは浅くうなずいてみせる。
「あー、だ、ろうな。雨天延長、なんて言ってたしなぁミス・スメラギ」
「ならば暫く此処で待機か」
 ホテルの狭いツインルームを見回して刹那はため息をつく。
 今回はロックオンとデュナメスの精密射撃を要とするミッションだった。些細な天気の変動くらいが問題になるような腕ではないが、それでも悪条件が重なれば延期にした方がよいと判断されるかもしれない。
「じゃあメシでも買い込むかぁ」
 そう言って作り付けのクローゼットを開くロックオンに、そうならないかもしれない、だとか、連絡を待て、とか、言いかけてしかし刹那は口を閉じる。
 改めて彼を見て、転がり出たのは溜め息だった。
「……何だよ」
 コートに腕を通していた男の、不満げな視線が視線が刺さる。痛くも何とも感じない刹那は軽く肩をすくめて応えた。
「浮かれてるのか」
「悪いか?」
 応えたロックオンは、なんとか口調に棘を滲ませようとしていたが、しかしその努力は成功しているとは言い難かった。余計に声がひっくり返って、ひどく間抜けな色合いである。
「何をしにきたと思ってる」
「ミッション中止だって」
「まだ」
「雪だ」
 知ってる、と言いかけて、それは溜息に変わる。
 それに不満を述べようとしてか、ロックオンが息を吸う前に、刹那はベッドの縁から立ちあがる。クローゼットに歩み寄ってハンガーにかけたままだったターバンを引き抜くと、それをロックオンに押し付けた。
「お。」
 反射的に受け取ったロックオンが満面の笑みを浮かべて此方を見下ろすのを、ちらりと見てからすぐに元の位置に戻り、刹那はごろりとベッドに寝転がった。
「──借りていいのか?」
「うるさい」
「さんきゅ」
 そう言ってロックオンはベッドサイドに歩み寄ると刹那のこめかみに軽くキスを落とした。それを出発の挨拶としたつもりか、足早に部屋を出て行って、そのまま刹那ひとりが取り残される。
 溜息をついて、彼の唇の触れた辺りをそっと指先で撫でると、刹那はむくりと起きあがった。そうして、ようやく窓の傍に歩み寄る。カーテンを開けられたままの窓からはガラスごしにひやりとした冷気が伝わってきて、窓を覆う白い露に風景が単色である理由を知る。
 指先を伸ばしてそれを拭えば、氷のような冷たさがそこに触れて。
 向こう側にみえたのは、一面の白。


「雪だ」


 今更、それを知ったように刹那は呟いた。もう一度呟けば、その単語はもう子供のような拙さではなく、その一面の白と降り積もる白とを表す言葉だと知れた。雪だ。
「雪」
 それは刹那の生きてきた乾ききった大地には存在しない、ただひたすらの白で、その破片は絶え間なく空から降り注ぎ、降り積もり、世界を単色に染めて、ひかりを乱反射させて。
 そこに、踏み出したいなどと、思わなかった。
 そんなものは触れるものではない。きっと触れたら壊れてしまうだろうと思った。雪が、ではなく。此方が。真っ白な世界は自分を拒むようで、自分を糾弾するようで、まるで知らない世界が其処にあるという、恐怖に似た感覚が刹那を襲う。
 白くて──無音で。
 何も無いんじゃないだろうか。この陰影は、ただそこに何かがあったという残骸だけで、それが全部無くなったら、まるであのときの風景のように、ただ黄色と、黒と、血の臭いしか無い、あの世界に戻っているのじゃないかと。
 指先に一瞬、奔った震えはきっと寒さのせいではなくて。
 刹那は視線を逸らすようにそっと眼を伏せて──そして、見る。
「──あ」
 馬鹿が居た。
 赤いターバンを首に巻いてグローブをした手を振っている馬鹿は、長身のせいか白の中で妙に目立って見えた。満面の笑み。馬鹿だ。
 自分と眼が合ったのに気が付いたのだろう、路地に出て手を振っていたロックオンはスリップしかけた車の存在に気が付いて慌てたように飛び退いた。クラクションを鳴らされたのだろうか、はは、と苦笑した表情が見えた。
 刹那は思わず窓を開け放って叫ぶ。
「気を付けろ!」
「寒いだろ、閉めとけって!」
 間髪入れずに返された言葉は相変わらず他人を心配するものばっかりで。
 窓を開ければ世界は無音というほどではなく、確かに音は吸収されて、街の雑音はまるで届かないけれど、ロックオンの声は聞こえた。
 世界は其処に、変わらずにあった。
 頬を刺す風は酷く冷たくて、刹那は軽く身震いをする。それに、ほら!、と階下で見えないはずのロックオンは指さしてきて叫び、気圧されるように窓を閉めれば満足げに笑う。
 氷のような冷たい世界の真ん中で、ロックオンはまた大きく手を振ってから歩き出す。その姿が白の合間に見えなくなるまで見送って、刹那は窓辺を離れるとベッドに倒れ込んだ。窓の側のベッドに。
 転がったままで窓の外をみれば、自分の拭った隙間から、ちらちらと白の揺れる様が見えて、それがこのまま世界中を覆ってしまうかもしれないという恐怖はまだ心の隅に残っていた。それでも、もう震えることがなかったのはきっと、ベッドの奥に残っている熱がそれを溶かしたからだと思った。




いぬはよろこびにわかけまわりねこはこたつでまるくなる。