不釣り合いな戒めを









 地球での活動を終えて宇宙へと向かうエレベータの軌道上、ちょっと、などと言って席を立ったロックオンのことを、誰も心配などはしていなかった。なかなか戻ってこないからといって何が起こるというのだ。アレルヤが、遅いねぇ、などと言ってみたくらいで、刹那もティエリアも頷きすら返さなかった。
 ティエリアが立ちあがったのは純粋に自分が喉が渇いたからで、相変わらず刹那は窓の外を見ていたし、アレルヤは本に視線を落としたままで誰もティエリアのことなど見なかった。
 客室間の共有スペース。空気に混じる違和感にティエリアは顔を顰める。
 地球という狭い檻を抜け出して、しかしひとは地球と繋がっていなければ生きていけない。ある程度の自給自足は可能だが、それも地球と繋がっているからこそだ。食物、水、そして酸素。
 ああ、このエレベータは新たなる可能性への道程などではない! これはただ、重力という枷を自分の足首に縛り付ける鎖だ──その事実をこそティエリアは忌々しく思う。自分がいつまでも、彼らから離れられないということに。
 オゾンの匂いの濃い宇宙空間での酸素に慣れたティエリアの体は、だからその重い匂いを鎖と連想させた。それを辿って視界を巡らせれば、簡単にその発する主の場所は見あたった。
「──はた迷惑だな」
 そう吐き捨ててティエリアは彼の傍へ向けて壁を蹴る。制御された無重力の中で、過不足なく加えられたちからは、過たずロックオンの横へ彼の体を運んだ。途端、まとわりつくような重い空気が、ティエリアの気管に侵入する。
「此処でそれを喫うのに、何の意味がある?」
「気分転換」
 大して面白くも無いことを面白くもない顔をして言って、ロックオンは指に挟んだ煙草で天井を示してみせる。
「排気ダクトは此処だぜ。別にルール違反じゃないだろ?」
「悪趣味だ」
「勿論。こいつの存在意義ってのはそういうもんだ」
 そう言ってロックオンは天井に向けてふーと細く息を吐く。頼りなく伸びたしろい煙はひゅるひゅると吸い込まれるようにダクトに伸びて消えた。鈍い重みのある匂いだけが、辺りに残っているのは此処がそういう連中の休憩所であるからだろう。この一角だけが酷く重く、不愉快にすら思えた。
「そんな習慣があるとは知らなかったな」
「煙草?」
 浅く頷いてみせれば、んー、とそれを銜えて首を傾げてみる。限られた酸素をちりちりと燃焼させて、火が揺れる。
「宇宙ではやっぱり、限られるし。地球で久しぶりに、昔喫ってたやつ見かけてね、何となく」
「感傷的だな」
「頼むぜ、ティエリア」
 色の染みた壁面を眉を蹙めて睨み付けていたのがわかったのだろう、ロックオンはそう言ってティエリアに笑ってみせた。
「ブリーフィングの時間まで勘弁してくれよ。ちょっと厭な気分なんだ」
「厭、」
「むしゃくしゃするんだよ」
 そう言ったロックオンの表情は普段の飄々とした態度とは違っていて、おそろしく困ったような、怒り狂っているような、或いは泣きだしてしまいそうな。それが何の切欠でかは判らなかったが、今朝顔を合わせたときからその違和感は続いていた気がする。ホームシックなどではないと思えた。笑う顔も無理をしているようで、それを無理と気付かせまいとするようで。
 その違和感をティエリアはくだらないと思う。むしゃくしゃするのならば怒ればよいのだ。気にくわないのであれば否定すればいい。自分の意に添ったところで満足すればいいのだ。何故毒など身のうちに引き込む必要がある。重力など! 重力など!
「ティエリア」
 そう子供に言い聞かせるように言う男の掌から、手を伸ばしたティエリアは煙草を奪い取る。一息吸えばはらの底へ侵入してきた煙が、ひゅるりと体中に糸を巡らせるようにして、神経の隅々までを殺してゆくような、そんな細かい断片までを錯覚した。自分を殺すもの、彼を殺すもの。懐古、慟哭、それを持たない自分。
「くだらないものに縛られるくらいならばそんなものは壊せ」
 吸い込んだ毒を吐き戻すようにそう言うとティエリアは備え付けのダストボックスにそれを棄てて、ぎゃ、などと情けない悲鳴を上げるロックオンの胸元を引き寄せるとその口にそれ以上の毒を流し込むようにして口づける。
「──ッ、な、にすんの、おまえ!」
 不用意に深く吸い込んだか、ゲホゲホと咳き込むロックオンにティエリアは満足げに笑った。
「忘れただろう?」
「悪趣味過ぎるわ」





煙草喫いのロックオンが書きたかったのですが、トレミーでは流石に喫煙禁止かと思って無駄な足掻きをした結果なんかすっきりしないんですが何というかむしろ普段から情景描写を面倒くさがって避けてきたツケか。